待降節第3主日 A年

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 35:1-6a、10

紀元前6世紀から5世紀ごろ、バビロン捕囚から解放されて神殿も再建されたのに、いまだ苦しい状況にある人々に、「雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を」と、救いへの期待を歌う箇所です。

弱いわたしたちを強めるために、神のみ言葉(=聖書)は、いろいろな美しいたとえで、キリストがもたらす救いと喜びを伝えます。

第二朗読『使徒ヤコブの手紙』

ヤコブ 5:7-10

使徒ヤコブは、わたしたちが忍耐強くあるように呼びかけます。その呼びかけを聞きながら、たんなる我慢ではなく、不平を言わずに希望を持って待つことが出来るよう祈りましょう。

今回の朗読個所は、富んでいる者と貧しい人を分け隔てする教会の人々の態度に、「自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか。」(2:14)と非難する内容や、「隣人を裁くあなたは、いったい何者なのですか。」(4:12)など、さまざまな人々が集まる教会のありかたについて書かれた内容に続く箇所です。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 11:2-11

ご降誕、つまり「キリストの誕生」を、受け身的に待ち望んでいないでしょうか? 積極的に準備しながら待ち望むことこそ大切なことです。

今週の3つの朗読は、キリストの誕生がもたらす恵みが、どれほど素晴らしいかに思いを馳せながら、それをいただくために力を尽すよう呼びかけています。

イエスの洗礼の場面で、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」(マタイ3:14)と言った洗礼者ヨハネは、その後、権力者(王)にも悔い改めを迫り、牢に入れられてしまいます。今回の朗読個所は、ガリラヤに退いて宣教をはじめたイエスに、洗礼者ヨハネが弟子を送って「来るべき方は、あなたでしょうか。」と尋ねる場面です。イエスは洗礼者ヨハネの弟子たちに、イザヤ書(35:5-6、42:18、61:1)を引用して状況を伝えています。

キリストのもたらす救いが現実となるとき、「目の見えない人は見え」、「耳の聞こえない人は聞こえ」るようになって、より神を正しく理解できるようになります。しかし、自分が理解できる範囲だけでキリストを理解しようとするならば、自分には世界のすべてを理解できる能力があると考えて、神さえも自分の枠内に収めようとすることになります。それでは、「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」(マタイ13:13)という状態で、キリストに出会ったとしても、つまずいてしまうことになってしまいます。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

多くの病人をいやすイエス
The people of Capernaum bringing Jesus many to heal
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。