待降節第4主日 A年

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 7:10-14

アラム(=シリア)と北イスラエルの同盟は、ダビデの子孫である南ユダ王国のアハズ王を倒して、ダビデの子孫ではない別の者を王とした傀儡政権を作ろうとしていました。

神に信頼する道を選ぶように勧める預言者イザヤに、アハズが言った「主を試すようなことはしない。」という言葉は、神への強い信頼をあらわすときにも使われる言葉ですが、ここでは神に信頼せずに利己的な選択へ逃げるために使われています。

それでも神は、おとめが身ごもって、「インマヌエル」すなわち「神は我々と共におられる」と呼ばれる男の子が、ダビデの家に生まれるという「しるし」を与えてくださいます。「インマヌエル」は、名前というより特徴をあらわす呼び名です。

第二朗読『使徒パウロのローマの教会への手紙』

ローマ 1:1-7

パウロは、まだ訪れたこともなく、面識もないローマの人々に、この手紙を書いています。ですから、パウロ自身が、恵みとして与えられた自分の使命や、伝えようとしている福音について、短くまとめた箇所でもあります。

パウロが宣教する福音の中心は、"ダビデの子孫でありながら、神の子であるイエス"です。わたしたちは、その福音の中心を十分に悟っているでしょうか。
人間の理解を超えた出来事を知ることができるのは、聖霊が働く時だけです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 1:18-24

今週の福音朗読は、キリストの御降誕を受け入れたヨセフの役割に焦点を当てます。

婚約はイスラエル人にとって、結婚とほとんど同じことでした。二人は夫婦となりましたが、しばらくの間、一緒には住んでいませんでした。婚約してから6ヶ月くらい後に、荘厳に喜びの行列の中で、妻が夫のところに移るのが習慣だったのです。まだ一緒に住んでいなかったのに、マリアが身ごもっていることを知ったヨセフの驚きは、言葉では言い尽くせないものでした。

聖書に書いてあるように、彼は正しい人でしたので、マリアを死刑に当たる罪(申命記22:23)として訴えることはできません。しかし、マリアの子を皆の前で自分の子と認めるという嘘をついてもいけないと思いました。そこで、たとえ自分が不誠実な夫と非難されても、ヨセフは黙ってナザレから姿を消し、マリアの評判を守ろうと思ったのです。

「イエス」とは「神は救う」という意味です。救う神(=イエス)は、我々と共におられる神(=インマヌエル)として世に来られたのです。

マタイによる福音書は、イエスの系図から始まっています。マリアの夫になるヨセフがダビデの子孫で、イエスがヨセフの家に入ることにより、ダビデの家からメシアが生まれるという神の約束が実現します。
そして、マタイによる福音書は、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」というイエスの言葉で終わっています。神の救いであるイエスは、初めから終わりまで、いつも「我々と共におられる」のです。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

宿を探すヨセフとマリア
Joseph and Mary arrive at Bethlehem but find there is no room for them at the inn
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。