待降節第2主日 A年

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 11:1-10

エッサイとはダビデ王の父の名前で、その王朝が、切り倒された「株」や「根」と表現されています。根の残った株から、王朝をよみがえらせる「若枝」が育ち、その上に「主の霊」がとどまります。しかし一般的な王ではなく、「主の霊」によって、普通では考えられないような平和をもたらす王です。

「裁き」や「弁護」は、人間の考えで行われるのではなく、「主を知り、畏れ敬う霊」に満たされて行なわれるもので、「弱い人」や「貧しい人」たちのためであることに注意しましょう。

神のみ言葉(聖書)は、いろいろなたとえで「キリストがもたらす平和の素晴らしさ」をわたしたちに伝えます。その平和を、わたしたちが十分にいただいていることを感じているでしょうか?

また、その平和を、わたしたちは周囲の人々にもたらしているかどうか反省しましょう。

第二朗読『使徒パウロのローマの教会への手紙』

ローマ 15:4-9

「かつて書かれた事柄」(=聖書)を読むことは、わたしたちに大きな希望を与えるはずです。実際にそうなるように、朗読を聞きながら祈りましょう。

キリストに倣っていれば、いずれ思いはひとつになります。キリストが受け入れてくださったように、互いを受け入れることもできていくはずです。そして、ごミサの中で、すべての人がこころをひとつにして賛美をささげる姿が生まれるでしょう。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 3:1-12

わたしたちが、主の御降誕(クリスマス)をふさわしく迎えるための準備をするように、待降節第2主日と第3主日の福音朗読には、旧約時代最後の預言者として洗礼者ヨハネが登場します。

荒れ野は、普段の生活では十分に満たされているものも持っていけませんから、人間のこころがよりあらわになる場所です。その荒れ野でヨハネは、現実の生き方を変えて回心するように、つまり生きる方向を神に向けるように呼びかけます。

罪とは、神から離れることです。どんなに善行のように思えることであっても、人間の頭だけで考え判断して行うならば、神に背を向けて生きることになり、神との間にズレが生じます。このズレを無くすのが回心です。

自分たちこそ正しいと誇っているファリサイ派やサドカイ派の人々は、信仰者の姿を装ってはいますが、傲慢と独善という毒で周囲に苦しみをもたらすマムシなのです。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

エッサイの樹
12th-century painters - The Tree of Jesse
Michael Willmann (1678)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。