復活節第6主日 B年

第一朗読『使徒たちの宣教』

使徒言行録 10:25-26、34-35、44-48

21世紀の私たちにとって、わかりにくいことですが、今日の朗読では前後の関係が省かれ、なおさらわかりにくくなっています。使徒言行録に書いてあるように、最初の時代の教会の大きな問題と危機は、異邦人、すなわちユダヤ人ではない人々が教会に入るためにイスラエル人になる必要があるかどうかということでした。具体的に言えば、異邦人が割礼を受け、ユダヤ人の守っていた食事についての規則などを守らなければならないという問題でした。そのことは必要ないということを納得するために、まず、ペトロが幻を見て(使徒言行録10:9-23)、今日の朗読のように、その幻の教えによって、異邦人の家に行き、異邦人の上に聖霊が注がれるということが必要でした。

それだけではなく、その後、ガラテヤ信徒への手紙に書いてあるように、ペトロは批判をおそれて曖昧なこともして、パウロによって注意を受けなければなりませんでした。また、この問題を解決するためには、エルサレムの会議が必要でした。(使徒言行録15:1-41)その数年後、パウロの作ったガラテアの教会に、もう一度その問題が起こり、パウロによる非常に強いガラテヤ信徒への手紙(ガラテア2:11-14)をもって、正しい教え、すなわち、私たちがキリストによって救われるのにイスラエル人になる必要はないということを述べなければならなりませんでした。

第二朗読『使徒ヨハネの手紙』

一ヨハネ 4:7-10

神を、ひとつの言葉で定義することは無理であるようですが、ヨハネはここでそれをしました。それは「神は、愛である」です。今日の朗読の中には入っていませんが、少し後で書いてあるように、抽象的な意味で「神は、愛である」というだけではなく、わたしたちに対する愛です(ヨハネの手紙一4:16)。これは、わたしたちの信仰の中心です。忘れてしまうこともありますが、決して忘れてはいけません、心の中にこれを刻むように、度々祈らなければなりません。また、その結果として、福音朗読に書いてあるように、また、ヨハネが何度もこの手紙にも書いているように、互に愛し合うということです。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 15:9-17

他の福音書と同じように、このありがたい言葉を味わうために必要なことがあります。それは、福音書が昔に行ったことの記録ではなく、神の生きている言葉であるので、その言葉を通して、神が、今、私たちひとりひとりに話してくださっているということを自覚することが必要です。というのは、イエス様が使徒たちを「友」と呼んだだけではなくて、今日も私たちひとりひとりを「友」と呼んでくださっています。
福音書の中にある、キリストと私たちの関係をあらわす言葉には、「父」「兄弟」もありますが、その言葉よりも「友」という言葉は、何か特別なありがたさがあります。というのは、「父」や「兄弟」では、上下というニュアンスを含みますが、「友」は平等のニュアンスをあらわします。

キリストは、私たちのレベルまで降りてくださいます。その上、命を捨てるほどよい友達です。私たちが、キリストとよい友達であるように、今、この言葉を通して呼びかけておられます。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。