復活節第5主日 B年

第一朗読『使徒たちの宣教』

使徒言行録 9:26-31

サウロが本当にキリストの弟子であるかどうか、疑ったエルサレムの信者たちのとった行動は、今でも時々繰り返されています。というのは、新しく教会に入る人に対して、遠慮して話しかけないという間違いが多いです。ですからこの箇所を読んで、今から教会で新しい顔見たならば、すぐ話しかけて、歓迎されているということを一生懸命あらわそうとする決心をいたしましょう。

第二朗読『使徒ヨハネの手紙』

一ヨハネ 3:18-24

今回の朗読箇所には含まれていませんが、この言葉がよくわかるために、ちょうどのその前に書いてある言葉を思い出す方がよいです。

「世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」(ヨハネの手紙一3:17)

私の罪が赦されているのかと心配し過ぎる信者を思い出して、ヨハネは次の言葉を加えます。

「心に責められることがあろうとも。神は、わたしたちの心よりも大きく、すべてをご存じだからです。」(ヨハネの手紙一3:20)

結局、神の限りない憐れみに信頼するようにとヨハネは勧めます。

言うまでもなく、私たちが神に願う時に、いつでも「お望みであるなら」(マタイ26:42、マルコ14:36、ルカ22:42)「私のために本当に良いことだったら」(マタイ7:11)という条件で祈っています。この心をもって謙遜に祈ったら、頼んだ恵みとは違ったかたちであっても、必ず恵みをいただきます。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 15:1-8

このキリスト言葉の中心は、キリストと一致していないなら、私たちは神の前に価値のあることは何もできないということです。ヨハネは、これをぶどうの木と枝のたとえで説明します。ただ、『聖書と典礼』下段の注釈に書いてあるように、原文では同じ言葉が、人間とぶどうの両方に使われているので、訳される時に違う言葉になっています。「手入れをなさる」と「清くなる」は、原文では同じ言葉で、直訳すると「私の言葉によって、あなた方はすでに刈り込まれ(手入れされ)ている」ですが、日本語としておかしいので、「清くなる」になっています。それから、2節に原文には無い「つながって」という言葉を共同訳は加えただけではなくて「いながら」も加えていますが、省く方がよいです。原文では、「キリストに実を結ばない枝は...」となっています。結局、キリストとつながっているならば、実を結ばないことは矛盾です。キリストとつながっているならば、何らかの実を結びます。「実を結ぶ」とは人間的な成功ではなくて、神の御前に価値のあることです。信仰と希望と愛の実です。ですから、この文章は、キリストから離れて、キリストと関係がなくなり、実を結ばない枝(死んだ枝)ということで、その枝は御父によって取り除かれます。

キリストとつながっていても、程度が違うことがありえます。そのつながりがもっと強くなるために、御父は手入れをなさる(刈りこむ)のです。それは、ぶどうにとっては、痛みをともなうことでしょう。けれども、よりよく実を結ぶために必要です。キリスト信者は、いろいろな試練を通して、より深い信仰と希望と愛をもって、もっとキリストとつながります。
気が付かない可能性がありますが、大切なことである、そのキリストの一致とつながりは、どれほど深いことでしょう。枝が木から樹液をもらうのと同じように、私たちはキリストから、新しい命(神の子どもの命、聖性の恩恵)をいただきます。

聖書のある個所に、「信仰」という言葉だけが書いてあったとしても、あるいは、「愛」と言う言葉だけだったとしても、実際は両方とも含まれています。例えば、みことばが私たちの内にとどまることの意味は、信じることだけではなくて、聞き従う、すなわち愛を実行するという意味になります。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。