ミサ朗読について
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
司祭たちが広めた嘘によって、キリストの遺体を盗んだとされる人々(使徒たち)は今、司祭たちの前に立っています。どうして捕まえて、遺体がどこにあるか、必要だったら拷問にかけてでも聞かないのでしょうか。自分の話が、馬鹿馬鹿しく信じがたいものであるということを、司祭たちも民衆もわかっているということ以外に説明がつきません。
反対に使徒たちは、ポンティオ・ピラトがキリストを十字架にかけたとは言わず、あなたがたがあの酷いことをしたと勇敢に公に言います。キリストの復活以外に、空になった墓の説明はできないことは明らかになっていました。
ヨハネは、本当に信じにくいけれどもとてもありがたいことを私たちに言葉をかさねて伝えます。
御父は、私たちを子どもとして愛すること(これだけでもなんと素晴らしいことです)だけではなくて、実際に、ご自分の子どもとしてくださいました。新しい命(神の子どもの命)を、私たちは既にもっています。ただ、神の子どもであるという栄光と幸せは、まだあらわれていません。キリストが栄光のうちにあらわれる時、私たちの栄光もあらわれます。結局、今、私たちが神の子どもである状態と天国にいる時の状態とは、つぼみと満開になった花のような違いです。同じものでありながら、ありさまが違います。
この素晴らしいたとえは、ひとつ想像することが難しいところがあります。羊飼いとその群れの羊との関係を、私たちはあまり見たことがありません。だからたぶん、イエス様が21世紀の日本でお話になったとすれば、羊飼いのたとえではなく、大切にしているペットと飼い主との関係のたとえ話をお使いになったかもしれません。しかしながら、まだ足りません。なぜなら、ペットのために命を捨てる飼い主はいないと思われるからです。キリストは、やはり自分の羊のために、自分から進んで(これもキリストは強調します)命を捨てます。キリストは、良い羊飼いとして、わたしたちのことを心にかけています。それから、群れの中の無名の羊のようなものではなく、私たちをひとりひとり知っておられるということを強調されます。
この、ありがたいキリストと私たちとの関係を、十分に自覚するように、この福音書の箇所を度々読んで味わいましょう。
(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)
書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父
書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父
毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。