待降節第2主日 B年

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 40:1-5、9-11

「彼女」や「シオン(神殿があった丘の名)」は、エルサレムのことで、ここでは民全体を意味しています。「肉」とは、人間のことで、滅びゆく者、弱く罪の中にある者としての人間をあらわしています。

捕囚地バビロンからエルサレムまで移動するには、ユーフラテス川沿いを北上する道がありますが、エルサレムを憐れみ、民を慰めようとする神は、荒れ野にまっすぐ西に向かう広い道を通して、一刻も早い帰国を実現しようとされています。

第二朗読『使徒ペトロの手紙』

二ペトロ 3:8-14

「愛する人たち」の対極に「あざける者たち」(2ペトロ3:3)がいます。彼らは、主の再臨の約束は破られたのであり、世の中のことは天地創造の初めから何一つ変わりはしないと主張します。

ペトロは、神にとっての時間の尺度が、人間とは天と地ほどの差があるのだから、人間の尺度で神を批判するのは間違っていると説きます。神は、歴史全体を見渡して、もっとも良いタイミングを見定めようとされているのであり、それは、わたしたちが「一人も滅びないで皆が悔い改めるようにと」忍耐しておられるからだと教えます。

神の忍耐は、我慢ではありません。すべての人の悔い改めを待つための忍耐であり、愛の心のあらわれなのです。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 1:1-8

バビロン捕囚民の解放という第二イザヤの預言は、エルサレムへの帰還が紀元前539年に現実となり、確かにいったん成就しました。けれども、それは場所の移動に終わったとも言えます。つまり、キリストによって与えられる、もっと素晴らしい慰めの前兆にすぎなかったのです。新約聖書は、旧約聖書の預言の成就です。

洗礼者ヨハネの活動も荒れ野から始まります。洗礼者ヨハネの叫ぶ「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」の「道」は、場所を移動するための道ではなく、主キリストがわたしたちの心を訪れるための「道」であり、わたしたちが主のもとへ向かう「主の道」なのです。心に開かれた、神のもとへ帰還するための「道」なのです。人々は、その「道」がまっすぐになるように、またその決意を表明するために「悔い改めの洗礼」を受けました。水の中に沈み、古い自分に死んだのです。

聖書の述べる「悔い改め」は、生きる姿勢の転換(回心)であり、その転換は人間の努力によって達成されるというよりは、いつくしみ深い神の業(愛、限りない憐み)を知って、生き方そのものが、その方向へと変えられることを意味します。ですから、神を知ることなしには実現することができない転換なのです。

神のもとへの帰還、生きる姿勢の全面的な転換が可能になるように、「聖霊で洗礼をお授けになる」方、イエス・キリストは来られたのです。イエスの洗礼は、わたしたちを聖霊の中に沈めて、新しいいのちへと生まれ変わらせるものなのです。

福音記者マルコ
St. Gall Gospels Cod.Sang.51 - p.78 - Saint Mark
St. Gall Gospel Book (8世紀)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。