待降節第1主日 B年

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 63:16b-17、19b、64:2b-7

ペルシャによる支配が続き、貧しい生活からも抜け出せない状況の中で、神よりも自分を中心に置いて、信仰よりも利益追求を第一にする者が多くなっていました。信仰を捨てた者にとって、現状を変えてくれない神は無意味だったのです。

「贖う」という語は、基本的には「親戚として振る舞う」ことを意味し、子どもがないうちに夫と死別した妻をめとる親戚や、身内が売り払った土地を買い戻す親戚に使われます。自分の罪を知る人たちは、救いの神をそのような「親戚」と感じながら、その到来を待ち望んでいます。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 1:3-9

「待ち望む」と訳された語(アペクデコマイ)は、「熱心に、忍耐強く待つ」という意味です。さまざまな問題を抱えながらも待ち望んでいられるのは、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和」に包まれているとき、すでに与えられている「恵みと平和」がいっそう強められるときです。

キリストのうちにあって、キリストと交わるときに、キリストが最後までしっかり支えて非のうちどころのない者にしてくださり、忍耐強く目覚めて「待ち望む」能力も与えられるのです。パウロが、挨拶に続いて「いつもわたしの神に感謝しています」と述べるのは、すべての教会活動の真の主人公は「神」だからです。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 13:33-37

「目を覚ます」と訳された語(グレーゴレオー)は、「待つ」の同義語で、「目を開けて、眠り込まずにいる」という意味ですが、心の状態をあらわす意味でも使われます。「気をつけて」は、直訳で「見なさい」です。そのように「目を覚ましている」必要があるのは、眠り込まずにしっかり見て、神の働きかけに無感覚になっていないなら、これから起きる受難が救いに通じると悟ることができるからです。

「旅に出る人」は天に昇るイエスで、「僕たち」や「門番」は弟子たちです。そして、帰って来るのが「いつ」か、「その日、その時」(マルコ13:32)を知るのは、神だけであると強調されます。そのことに注意を促して、すでに終末が来ているかのように熱狂する人たちの思い違いや、終末が遅れていると考えて熱意を失った人たちの油断を戒め、わたしたち教会が希望のうちに「目を覚ましているように」と教えています。

重要なのは、待っている間の仕事ぶりや成果というより、待つときの姿勢や態度(心の向き)です。もし、与えられた「仕事」に没頭することが、キリストとの交わりを忘れさせるなら、それもまた無意味な狂騒に終わります。わたしたちは、熱狂や狂騒に明け暮れずに、静かに「目を覚まして」いるのです。

キリストを信じる者にとって、終末(主の再臨)は救いの完成ですから、「目を覚ましていなさい」は、裁きへの警告ではなく励ましなのです。主の慈しみに触れる希望が、「目を覚ましている」という態度を維持させ、今を大切に生きることができるのです。

オリーブ山のイエス
Jesus on the mount of Olives - William Brassey Hole
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。