年間第29主日 A年

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 45:1、4-6

神がキュロスに語りかけた言葉で、ここでの「わたし」は神です。ペルシア王キュロスは、捕囚民を解放するために、神が遣わした解放者であるとイザヤは告げました。主なる神のほかに神はいないことを、キュロスはまだ知らないが、キュロスだけでなく世界中がやがて知るようになるという内容です。

人の目から見れば、バビロンで強制労働させられている捕囚民は敗北者にすぎません。しかし、イザヤにとっては、誰が神であるかを世界に知らせるために、神が選んだ救いの器なのです。

第二朗読『使徒パウロのテサロニケの教会への手紙』

一テサロニケ 1:1-5b

パウロは、テサロニケの人々の「信仰」「愛」「希望」を思い起こして、神に感謝しています。それこそが、神からの新たな命を指し示すしるし(要点)だからです。

「神から選ばれる」とは、福音を「力と、聖霊と、強い確信」によって受け入れることです。信仰を呼び起こすのは、人間の言葉や知恵ではなく、神の力です。人間が伝える福音を「人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れる」なら、信じる者の中で、神の言葉が力を発揮します(1テサロニケ2:13)。

テサロニケの人々が、「信仰の働き」「愛の労苦」「希望の忍耐」を示すことができるのは、神の言葉が働いているからなのです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 22:15-21

ヘロデ派とファリサイ派は、だいたい敵対していましたが、イエスを罠にかけるために一緒に行動しています。

もしイエスが、税を皇帝に納めるべきだと答えれば、ローマの支配を認め、「第一の掟」(マタイ22:38)に反して神以外のものを神とする不信仰者だと喧伝し、人望を失墜させることができます。逆に否定すれば、ローマ帝国への反逆者として訴えることができます。どちらの答えでも、イエスを陥れることができるのです。

イエスが「偽善者たちよ」と呼ぶのは、彼らが「神の道を教える方」とお世辞を口にして教えを乞うふりをしながら近づいてきたからではありません。日常生活においてはローマの硬貨を平気で何の疑問も抱かずに用いておきながら、納税問題のときにだけ一変して敬けんぶっていたからです。

ローマの硬貨には、神格化されつつあったローマ皇帝の像と皇帝を神の子とする銘が刻まれていたため、その硬貨を使って税金を納めることは、神への背信行為とされたのです。ファリサイ派の人々は、口先では神を敬うけれど、心は遠くはなれている「偽善者」だったのです。

「皇帝のものは皇帝に」という答えで、納税問題への回答になっていますが、イエスはさらに「神のものは神に返しなさい」と付け加えられています。ファリサイ派の人々は、硬貨に刻まれたローマ皇帝の肖像(似姿)を見ていますが、自分自身が「神の似姿」(創世記1:26)であることを忘れているからです。

つまり、イエスは、自分を陥れようとする者のためにも「真理に基づいて」神に従う道を開こうとされたのです。わたしたちも、自分に「神の似姿」が刻まれていることを知り、「神のもの」として生きるよう招かれています。

神殿で教えるイエス
Jesus preaching in the Temple
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。