年間第28主日 A年

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 25:6-10a

祝宴の伝統的なたとえで、神が備えてくださる終わりのない幸福をあらわしています。

「死を永久に滅ぼしてくださる」とありますが、その後で「死者が再び生きることはなく」(イザヤ26:14)とありますから、死者が復活したから死が滅ぼされたということではなく、切なる願いとして歌われています。ごく新しい部分をのぞいて、旧約聖書での死を乗り越える道は、属する民族が永久に存続し続け、子孫のうちに生き続けるということでした。

第二朗読『使徒パウロのフィリピの教会への手紙』

フィリピ 4:12-14、19-20

どのような状況でも、パウロは「わたしを強めてくださる方のお陰で」力を得ています。直訳では、「わたしを強める方の中に」となりますが、その中に留まる限り、克服する力や道が与えられるのです。直前には「自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」(フィリピ4:11)とも書かれています。

贈り物を当てにする必要のないパウロは、フィリピからの品物そのものについて喜んでいるのではありません。その贈り物は、パウロというより、むしろ神にささげられたのです。神への「香ばしい香り」(フィリピ4:18)として神に受け入れられ、神と彼らの関係をいっそう豊かにし、神が彼らを「満たす」ことになるため、パウロは喜んでいるのです。神との関わりに生きることがすべてなのです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 22:1-14、または 22:1-10

原文によると、王は家来たちに「わたしの食事の用意が終わり、わたしの牡牛が屠られ、用意されている」と伝えさせています。つまり、「王子の婚宴」は、王が自ら整えて準備した宴です。

招かれていた人々は、祭司長や長老たちを指しますが、神のもたらす救いに価値を見いださず、祝宴には来ませんでした。「善人も悪人も」婚宴にやってきまが、花婿である王子を待つ姿は、イエスが再び来るのを待つ教会の姿を示しています。

席に着くには、王への敬意をあらわす「婚礼の礼服」を着ていなければなりません。しかし、「善人も悪人も」すべての人を招いていますから、「礼服」とは、救いを手にするための善行ではなく、すでに与えられた救いに感謝をあらわすためのしるしだと考えられます。

教会にも同様に、「善人も悪人も」属しています。わたしたち一人ひとりに声をかけて、神ご自身が準備を整えた「王子の婚宴」に招かれています。わたしたちは、ただ食事の席に参加するのではなく、神がどのような方であるかを知って宴席につかなくてはなりません。教会から「悪人」が締め出されることはありませんが、神は「婚礼の礼服」を着ていない人を外の暗闇へとほうり出されます。

キリストのもたらす救いに招かれたことを知ったなら、その招きに対する感謝と、ふさわしく生きたいと望む希望を「婚礼の礼服」として身にまとうはずです。教会とは、そのような人々が集まって祝うための宴の場なのです。

感謝の宴(エウカリスティア)
The ever present
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。