年間第12主日 A年

第一朗読『エレミヤの預言』

エレミヤ 20:10-13

エレミヤは、紀元前7世紀から6世紀初めにかけてエルサレムで活動した預言者で、今回の朗読箇所は、預言者としての苦悩や不安を赤裸々に神に訴える箇所のひとつです。

エレミヤを非難する人たちに悪意があるとは限りませんが、自分こそ神に従う者だと自負し、自分たちの正しさを過信する傲慢さがあります。

注意すべきことは、自分に復讐させてくださいとは祈らずに、神にゆだねているところです。確かに、憎しみから生まれている祈りかもしれませんが、それでも復讐を放棄して神にゆだねるのは、神の正しさを信じているからであり、自分の正しさを示すことになる敵の滅びそのものよりも、神の正しさが示されることを願っているからです。

けれども、敵をもゆるすキリストの教えは、エレミヤの願いをはるかに超えるもので、神の正しさを示すための復讐の祈りさえ不必要になるものです。

第二朗読『使徒パウロのローマの教会への手紙』

ローマ 5:12-15

アダムの犯した「罪」が、14節では「踏み越えること(律法違反)」、15節では「迷いでること」という意味の語であらわされています。つまり、アダムの「罪」は、神の指示を「踏み越え、迷い出た」ことにあります。

パウロは、信仰によって義とされた者は死から解放されていることを、アダムとキリストの対比によって明らかにします。「罪」と「義」では正反対ですが、その結果がすべてに及ぶという点では同じです。しかし、その及び方は、神に聞き従ったキリストによってわたしたちがいただく「恵みの賜物」と「罪」とでは「比較になりません。」

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 10:26-33

「仲間であると言い表す」という語は、「一致する」「同意する」「承認する」という意味を持ち、新約聖書の中では、イエスが主であると告白したり公然と宣言する場面で用いられています。(ローマ10:9など)

しかし、「ユダヤ人たちは既に、イエスをメシアであると公に言い表す者がいれば、会堂から追放すると決めていた」(ヨハネ9:22)ので、そのような信仰告白には、常に危険が伴いました。告白に危険が伴うのは、神の思いと人の思いとの間に、大きなズレがあるからです。

「恐れるな」は、「恐れているのをやめなさい」という意味の命令表現ですから、わたしたちは、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者ども」を恐れるのをやめて、「魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方」を恐れなくてはなりません。命を支配できるのはただ神のみで、命は神の保護のもとにあるからです。

その神に信頼して、「人々の前で」イエスを認め、イエスの語られたことを「明るみで言い」「屋根の上で言い広め」るのです。覆われていて真実を認めない「人々」の救いのためにも、イエスのことばを告げ知らせるのです。そのような弟子を、イエスも「天の父の前で」仲間と認めてくださいます。イエスは、今日も「恐れるな」と励まし続けておられます。

使徒たちへの助言
Brooklyn Museum - The Exhortation to the Apostles (Recommandation aux apôtres)
James Tissot (1886-1894)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。