キリストの聖体 A年

第一朗読『申命記』

申命記 8:2-3、14b-16a

神が、イスラエル人に与えられた奇跡的で不思議な食べ物「マナ」は、ご聖体のしるしでありながら、ご聖体と比べることはできません。

「パン」や「水」は、口に入れれば自然と体に吸収されます。しかし、「言葉」は意識的に聞こうとしなければ心に留まりませんから、耳に入っても聞き流すことができます。神からの「言葉」を受け取るかどうかは、人間側の問題なのです。

また、「主の口から出るすべての言葉」とあるように、自分にとって好ましい好ましくないに関わらず、すべてのことを通して神は働かれています。日々の出来事の背後にある神の創造的な働きかけを受け取るかどうかは、わたしたちが心を神に向けているか次第なのです。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 10:16-17

ユダヤ人は食事のとき、神からの恵みに感謝して「賛美の杯」を手に神を賛美する祈りを唱えます。しかし、わたしたちキリスト者の「賛美の杯」はそれだけでなく、「キリストの血」というはるかに大きな恵みにあずかるものです。

「キリストの血にあずかる」とは、イエスと共に死んで葬られることです。イエスは、わたしたちの罪に死んだのですから、わたしたちも共に罪に対して死に、新たな命に生きるものとされているのです。

また、わたしたちが割くパンも感謝だけで終わりません。信仰をもって裂くとき、「皆が一つのパンを分けて食べる」ことによって、「一つの(キリストの)体」の一部となり、「大勢でも、一つの体(一つの心)」として、神によって創造された新しい命に生きることになるのです。

それは、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(1コリント12:26)というような、神が作り出す他者との交わりです。

わたしたちは、一人ひとりがキリストの体であることを思い起こして生きるために、キリストの「血」と「体」にあずかるのです。ですから、争い、恨み、妬みなどは、聖体拝領によって無くならなければなりません。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 6:51-58

「パン」は、従うべき御言葉の象徴で、イエスを神の「言葉」と信じ、永遠の命をもたらすものとして受け入れ、心に深く留めることのようにも見えます。
しかし、途中から「食べる」「飲む」「血」「肉」が多用され、「パン」は「血」と「肉」そのものであると明確にされます。

繰り返されている「食べる」という語は、もともと動物が餌を食べることを表しますが、ヨハネがあえてこの語を用いたのは、イエスの「血」と「肉」をご聖体の形で実際に食べることを示していると考えられます。

「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」とは、「いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる」ということと同じであり、これを実現させるためのものが「まことの食べ物」、すなわちご聖体なのです。

神の御言葉であるイエスは、ご自分の「血」と「肉」を差し出すことによって、わたしたちの内に命を与え、わたしたちはその恵みによって新たな命を生き始めるのです。

いつもあなたがたと共に
The ever present
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。