ミサ朗読について
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
ペトロは、イエスを十字架につけた人々に、イエスを信じるように呼びかけます。そして、既に信じているわたしたちにも、より深く信じるように呼びかけています。
聖書が述べる「悔い改め(回心)」とは、生きる姿勢全体を神に向け、キリストに心を合わせて生きることです。それは、目に見える人間的な評価、つまり、何がどれだけできたかという結果や成果、表面的なやり方のことではなく、心のあり方(生きる姿勢、生きる方向)が、神に向けられているかということです。
生きる姿勢全体を神に向けることにより、賜物として「聖霊」を受け、その導きによって歩むことができるのです。キリスト者とは、その恵みの命を生きる人のことであり、誰もがその恵みに招かれているのです。
不当な苦しみは、「正しくお裁きになる方(=神)」によって取り除かれるという希望を持ち続けることができるように、キリストの模範にならいましょう。それは、人の批判や判断(裁き)に振り回されず、神の裁きに身を任せる生き方であり、不条理の世の中にあっても「善」を行う生き方です。
「義によって生きる」とは、普通に読めば、「心を入れ替えて善行に励むこと」と思うかもしれません。しかし、パウロが、「自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。」(1コリント4:4)と書いているように、人間の正義にかなった行いとは無関係で、そのことに限定されません。
イエスの『ファリサイ派の人と徴税人のたとえ』(ルカ18:9-14)で「義」とされたのも、自分自身を頼りに自分の正義(人間の正義)を行い、同じようにしない人を裁き、形ばかりの祈りをするファリサイ派の人ではなく、神の憐れみに信頼をおいて祈る徴税人の方でした。
生まれつきの盲人が癒やされた奇跡(ヨハネ9:1-41)を受け入れようとしないファリサイ派の人々が「我々も見えないということか」とイエスを問い詰めた後の箇所です。
「羊の囲いに入るのに、門を通らないでほかの所を乗り越えて来る者」は、「盗人であり、強盗」(殺し滅ぼす者)で、ファリサイ派のようにイエスを受け入れない人々のことだと明かされます。イエスは「門」であり「羊飼い」です。そして、イエスに癒やされ、ユダヤ人たちの忠告には耳を貸さず、会堂からの追放も恐れずに「あの方は神のもとから来られた」と告白した盲人は、イエスの声を知る「羊」をあらわしています。
イエスの声に従う羊は「門(道であり、真理)」を通って牧草を見つけ、命が豊かに与えられます。けれども、自分自身を頼りに自分の正義(人間の正義)を行う人は、羊飼いの声を聞かない羊であり、さまよっている自分に気づいていない状態とも言えます。
イエスは、今日も羊たちの名を呼んでいます。キリストとわたしたちの間の親密で温かい愛の関係を悟るように、御ミサを通して切に祈りましょう。
書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父
書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父
毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。