復活節第3主日 A年

第一朗読『使徒たちの宣教』

使徒言行録 2:14、22-33

イエスの死に失望した弟子たちは、家の戸に鍵をかけて隠れていました。その弟子たちが、わずか50日後(五旬祭の日)には、殺される危険をもいとわず群衆の前に出て、聖霊降臨の出来事に驚く人々に、公に「キリストの復活」を宣言しています。

パスカルの「わたしは、その証言のために自分の命を差し出すことを辞さない証人を喜んで信用する。」という言葉を思い出してみましょう。

第二朗読『使徒ペトロの手紙』

一ペトロ 1:17-21

わたしたちが贖われたのは、何によってなのかをわかっていますか?と、聖ペトロは、そのことを自覚するように呼びかけます。

「この地上に仮住まいする」と表現されるのは、キリスト再臨のときに与えられる救いこそが、キリスト者が目指す安息だからです。

「その方を畏れて」とありますが、この「畏れ」は恐怖のことではありません。神への畏れは恐怖ではなく、人間の思いを超えた方に対する感謝を込めた畏敬のはずです。ですから、教会に集う人たちは、自分の力や努力を誇示する人でなく、神の業を証しする人のなのです。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 24:13-35

エマオへ向かう二人の弟子は、当時のイスラエル人たちと同じように、イエスが「地上の王(政治的な解放者)」としてイスラエルを解放すると思っていたので、十字架の死をイエスの活動の失敗と考え、望みを絶たれて落胆し、エルサレムを後にしました。

注意すべきなのは、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」(ルカ24:5)とイエスが「復活なさった」こと知らされた後の弟子たちの行動です。朝早く墓に行った婦人たちは、空っぽの墓でイエスは「生きておられる」と知らされます。婦人たちは引き返して弟子たちに伝え、弟子たちも墓に行きますが、イエスを見つけることはできません。なぜなら、「生きておられる」イエスと出会うために行くべきなのは墓ではなく、パンが裂かれる場所だからです。

遮られていた二人の弟子の目は、イエスとともに歩み、聖書が語る神のみことばに耳を傾けて、ともに食事の席に着き、賛美の祈りのうちに裂かれたパンを分け合っていただいたときに開かれ、復活のイエスを知りました。ですから、キリストを信じるわたしたちは、その行為のうちに現存されるイエスに出会うために、今も集まるのです。

ミサには「主は皆さんとともに。」という対話句が何度かありますが、それは、キリストの名によって集まったわたしたちの中に、イエスはいてくださるということを思い起こすためなのです。(マタイ18:20)

復活節の喜びのうちに、神の愛によっていただいた恵みと、わたしたちに対する神の愛をより深く味わうように祈りましょう。

エマオで現れるイエス
Jesus appearing to two disciples on the road to Emmaus
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。