四旬節第3主日 A年

第一朗読『出エジプト記』

出エジプト 17:3-7

イスラエルの民は、葦の海の奇跡によってエジプトから逃れましたが、荒れ野で飢えに苦しみ(出エジプト16)、今回の朗読箇所では渇きに苦しみます。民が、飲み水のことでモーセに不平を言うのは二度目で、より強い不平になっています。

モーセが与える水は、後にキリストが与える、より素晴らしい水のしるしです。

第二朗読『使徒パウロのローマの教会への手紙』

ローマ 5:1-2、5-8

聖パウロは驚くべきことをわたしたちに伝えます。それは、「神は、わたしたちを愛してくださる」と言うことです。これこそ、キリストの死の意味です。

わたしたちは、「キリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ」ました。「義」も「平和」もキリストによってあらわされ、神からの賜物としていただいた恵みなのです。

人間も、自分にとって価値のある人のために、何かを求めて死ぬことならできるかもしれません。しかし、キリストは、「まだ弱かった」「不信心な者」であり、「まだ罪人で」愛される価値もない者のために、何も求めずに死んでくださいました。そこに、わたしたちに対する神の無償の愛があらわされています。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 4:5-42 または 4:5-15、19b-26、39a、40-42

ユダヤ人とサマリア人には確執があり、ユダヤ人はサマリアを避けて通っていましたが、イエスはガリラヤに行く際にサマリアを通られました。そして、ユダヤ人とサマリア人の間にある問題のひとつは、礼拝する場所についてだったのです。

現代のわたしたちも、場所にこだわってしまうことがありますが、イエスの答えは、サマリアにあるゲリジム山でもエルサレムでもありません。神は、場所に限定されることはありませんし、ただ「霊と真理をもって」ささげられる心からの礼拝を求めておられるからです。

イエスは、メシアの到来をなかなか悟らないサマリアの女に、「それ(メシア)は、あなたと話をしているこのわたしである。」と告げられました。わたしたちも同じように、聖書によって、また、教会の教えと説教によって、イエスの教えを聞いていますが、まだ聞いたとは言えない場合もあります。しかし、神の言葉を聞くという気持ちで祈ったら、時々、すでに知っているつもりだった神の言葉が、自分にとって、もっと具体的な神の声になります。

サマリア人たちは、「わたしたちが信じるのは、もうあなた(サマリアの女)が話してくれたからではない。」と言っています。わたしたちが福音を伝えるときも同じで、もし、自分を捨てて御心に適うことのためにイエスとともに働くことができ、与えられた聖霊によって語るならば、イエスのことばがわたしたちを通して働き、わたしたち自身を遥かに超えて、そのことばを聞いた人たちは直接イエスと出会うのです。

聖書の中には、「水」が何回も神の恵みのしるしとして出てきます。「生きた水」を熱心に乾き求めることができるように祈りましょう。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

イエスとサマリアの女
Jesus resting by Jacobs Well
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。