王であるキリスト C年

第一朗読『サムエル記』

サムエル下 5:1-3

ダビデは、「イスラエルを治める王となるべき者」(サムエル上16:1)だと神から言われていたのに、サウル王に何度も命を狙われ、各地を転々としなければなりませんでした。そのころのダビデは兵隊たちの頭にすぎず、その後、王となった時でもユダ族だけでの王でした。しかし、この朗読箇所で、全イスラエルの王になります。

神が、ダビデの子孫に約束してくださった「とこしえに続く王国」(サムエル下7:16)とは、ダビデの子孫であるキリストの王国のことです。神さまの約束は必ず実現されますから、御子キリストについての約束も実現されます。

第二朗読『使徒パウロのコロサイの教会への手紙』

コロサイ 1:12-20

イエスが、人間となった神の子として「見えない神の(見える)姿」であり、すべての者よりも優れたお方であることを、聖パウロは言葉を重ねて伝えます。

キリストの王国に、わたしたちが入らせていただき、キリストとともに王であることを感謝するように、聖パウロはわたしたちに呼びかけます。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 23:35-43

最初に議員たち、次に兵士たち、そして十字架につけられた犯罪人の一人が、イエスを侮辱します。彼らは、もしイエスが「ユダヤ人の王」であり「メシア(=キリスト)」なら、自分で十字架から降りて自分を救うことができるはずだと考えていました。彼らにとって、十字架はイエスが「メシア」でないことの証拠です。

けれども、もう一人の犯罪人は、イエスが「何も悪いことをしていない」のに同じ刑罰を受けて、罪人とともに死を担っていることに気づきます。イエスは、十字架から降りられないのではなく、むしろ十字架から降りずに、ともにいてくださることによって「メシア」なのです。彼にとっては、十字架こそイエスが「メシア」であることのしるし(神からのメッセージ)なのです。

十字架につけられた犯罪人が、そばで同じように死刑というひどい刑罰を受けている人に対して「あなたの御国」と言い、「王」と認めているのは、本当におかしいことのように見えます。しかしながら、そのおかしいこと、すなわち十字架にかけられているイエスが「王」であることは、現在、何億もの人が宣言しています。神さまの道は、人間の知恵よりも、はるかに優れています。

世の中には、「キリストは神であり、神の御子である」と信じるなんて、頭がどうかしていると言っている人もいます。でも、いつか、そのことが喜びでも嫌なことであっても、キリストは王であるという日がきます。

わたしたちは、典礼暦の最後の主日「王であるキリスト」の祭日に、ミサの中で宣言しましょう。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

十字架のキリスト
Jesus being scourged
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。