年間第33主日 C年

第一朗読『マラキの預言』

マラキ 3:19-20a

神殿は再建されたのに、いつまでも栄光は来ないといって、自己中心的な生き方をしないように、預言者マラキは求めます。

一般的に「高慢な者」とは、人よりもすぐれていると思い上がって、人を見下すような人のことですが、それでは「神」との関係が抜けています。聖書にある「高慢な者」とは、神ではなく自分の願望を中心にして生きる人のことです。自分では、いくら善いことのつもりでも、それは神から離れることであり、「悪を行う者」になってしまいます。

第二朗読『使徒パウロのテサロニケの教会への手紙』

二テサロニケ 3:7-12

パウロは、「主の日は既に来てしまった」と思っている人たちに、怠惰な生活や「余計なこと」をせずに「落ち着いて仕事をしなさい」と命じます。

「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」(マタイ11:29)とあるように、わたしたちはキリストと一緒に、二人で一つの軛を負っているのです。キリストに歩みを揃えずに自分勝手に歩いては、軛は軽くもならず、安らぎも得られません。

ですから、キリストとともに歩まないならば、もし熱心に生きていたとしても、「余計なこと」をしているだけになってしまうのです。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 21:5-19

今回の福音朗読は、直接的なエルサレムの滅びの予告であります。しかしながら、ベネディクト16世が言ったように、聖書の言葉を、ただ昔の出来事の記録として見るならば死んでしまった言葉ですが、今を生きるわたしたちに宛てた神の言葉として読むならば生きた言葉になります。

神の言葉であるキリストの教えの中には、矛盾とも思える言葉が何回かあらわれて目立ちます。今回の福音朗読の中でも、一方では、キリストの弟子たちが迫害を受けて「中には殺される者もいる」とありますが、でも一方では、「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」とあります。

他の箇所でも同じように、「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」(ヨハネ12: 2)、「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」(ヨハネ12: 24)などあります。

目に見えるものと目に見えないものとの対立、人間の判断と神の審判との対立は、キリスト教を理解するために中心的なことです。人間的なことを無視して、何でも信仰の立場から見るという心がどれほど必要であるか、この福音箇所が教えます。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

鞭打たれるキリスト
Jesus summoning Zacchaeus the publican to entertain him at his house
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。