王であるキリスト B年

祭日「王であるキリスト」について

今日の祝日で、教会暦では一年の終わりです。この祝日によって、希望のうちに一年の典礼が終わります。来週から新しい年、待降節が始まります。キリストは王であり、すべての敵に打ち勝ちます。しばらくの間、今日の福音書の朗読の場面と同じように、一時的に迫害者と悪と罪が勝っているように見えますが、実際にはそうではありません。

第一朗読『ダニエルの預言』

ダニエル 7:13-14

主イエスが何回も「わたし」のかわりに「人の子」とおっしゃったのには理由があります。ダニエル書で、神はある人の子(救い主、メシア)に終わりのない王国を与えるということをダニエルは幻で見ます。『聖書と典礼』の注釈に書いてあるように、この箇所から「人の子」は「人間」の意味から「救い主(メシア)」を指すようになります。「日の老いたる者」は「永遠」ということです。主イエスが、「わたし」のかわりに「人の子」とおっしゃった時は、自分があのダニエルの幻に出てくる「人の子」であるということを暗喩しておられました。

第二朗読『ヨハネの黙示』

黙示録 1:5-8

黙示録のはじめに、ヨハネは、アジア州の教会にイエス様からの恵みを祈ってあいさつします。イエスについての肩書「証人」「誠実な方」「死者の中から最初に復活した方」「地上の王たちの支配者」に目をとめましょう。「証人」と「殉教者」は、ギリシャ語で同じ言葉であるということに注意すべきです。キリストは両方ともです。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 18:33b-37

イエス様は布教をなさる間、誤解を避けるために、ご自分が「救い主(メシア)」や「王」であるということを遠慮なさいました。けれども今、王である姿から遠すぎる姿、死刑を待つ者の姿である時に初めて「王」であることをはっきりおっしゃいます。けれども、その王国はこの世の王国ではないということも、イエス様ははっきりとおっしゃいます。

この箇所の原文は「王国」であるのに「国」と訳しているので、話の筋の継続性が足りません。原文を見たら「わたしの王国は、この世には属していない...」です。そのわけでピラトは、「それでは、やはり王なのか」と問います。共同訳によれば、キリストは「王」という言葉を使われなかったので、ピラトが「それでは...王なのか」と聞くのはおかしいと思います。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

手を洗っているピラトとキリスト
Mosaics-of-Christ-before-Pilate.jpg
Basilica di Sant'Apollinare Nuovo - Mosaics

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。