年間第33主日 B年

教会の暦によれば、一年のうちで最後の年間主日になります。再来週の日曜日から、待降節が始まり、新しい年が始まります。したがって典礼は、だいたい「世の終わり」「すべての死んだ人の復活」「公審判」を暗示します。

第一朗読『ダニエルの預言』

ダニエル 12:1-3

この箇所でダニエルの本の著者は、預言者たちがたびたびするように、時代によってずいぶん違う出来事を一緒に見て預言するということをします。その著者は、シリアの王様が2世紀初め頃にユダヤ人を迫害し、その苦しみの後の平和と神の勝利のことを、また、世の終わりの前の苦しみと公審判のことを預言します。

わたしたちは、よく悟らない危険がありますが、公審判と、報いと罰を受けるための復活は、神の完全な勝利ということになります。わたしたちは、希望をもって世の終わりと公審判を見なければいけません。

注意しなければならいことがあります。ここでも他のところでも、「多く」と「みんな」はヘブライ語では違う意味とはかぎりません。「多く」というのは、「大勢であるみんな」という意味もありえます。ミサの時も「多くの人のためにに流されて...」という箇所がありますが、「大勢であるみんなのためにに流されて...」という意味になります。

第二朗読『ヘブライ人への手紙』

ヘブライ 10:11-14、18

前回 の続きで、この朗読解説の内容も同じですが、少し付け加えます。

ヘブライ人への手紙は、キリスト信者になっていたユダヤ人(たぶんイスラエルの祭司たち)に宛てられた手紙です。その祭司たちは、神殿で荘厳に献げてきた生贄を今はできなくなったので憧れていたと思われます。だからパウロは、キリストの大祭司としての奉献が、どれほど旧約時代の大祭司の奉献にまさるかということをこの手紙で強調します。旧約時代の大祭司は、何回も奉献をささげなければなりませんし、本当の赦しはもたらされませんでした。しかし、キリストは一度だけの奉献で、罪の救いをもたらしてくださいました。

パウロの手紙は、パウロが話したことを誰かが書きとめておいたものです(2テサロニケ3:17)。それがあの時代では普通のやり方でした。しかし、この手紙は、そのように書かれたわけではありません。昔からの聖書学者たちの考えでは、パウロの協力者(使徒言行録のシラスなど)が、パウロの監督と勧めと願いのもとに書き、最後の部分(13:22-25)だけをパウロ自身が書き加えたと考えられます。ですから、その意味で著者はパウロと言えます。同じように、教皇様たちの回勅もたびたび他の人が書いても著者は教皇様と言えます。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 13:24-32

今日の朗読は、聖火曜日、神殿とエルサレムをご覧になりながらその滅びを預言する説教の終わりのところです。苦しみと災いを預言され、希望の言葉で終わります。「選ばれた人たちを四方から呼び集め」るからです。今回の朗読箇所のあと、いつであるかわからないから、そのためにいつでも用意しておかなければならないという内容があり、「目を覚ましていなさい」という呼びかけで説教は終わります。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

竜と戦う大天使ミカエル
The_Fight_with_the_Dragon_-_WGA19749.jpg
San Pietro al Monte in Civate - Frescos (circa 1090)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。