諸聖人

第一朗読『ヨハネの黙示』

黙示録 7:2-4、9-14

今日の祝日は、いつかわたしたちの祝日になると希望していなくてはいけません。というのは、列聖された人々、教会の聖人のリストに書いてあるすべての人の祝日だけではなく、天におられる、したがって聖人・聖なる者、救われたすべての人の祝日です。

ヨハネは幻の中で、彼らを、白い衣を身に着けた数えきれないほどの大群衆が、玉座におられる御父を礼拝し、喜びのうちに感謝をささげている姿として見ます。大きな苦難を通して、小羊の血によって清められた、神の前におられる人々です。

第二朗読『使徒ヨハネの手紙』

一ヨハネ 3:1-3

ヨハネの手紙も、諸聖人の祝日が、救われたすべての人の祝日であることを思い出させます。洗礼を受けて、その恵みを保っている人は、もうすでに神の子供(聖なるもの)です。天国に入る権利をいただいている人です。

天国で幸せになっている人と、この地上で苦しむわたしたちとの違いは、満開になって美しさをあらわす花と、まだその美しさをあらわしていないつぼみとの違いですが、根本的には同じものです。このことをわたしたちは忘れがちですが、忘れてはいけません。"わたしは、神の子供"なのです。

そのようなわけで、パウロも手紙の冒頭で何度も信者たちを「聖なる者」と呼びます。(ローマ1:7、1コリント1:2など)また、信仰宣言の時には「聖徒の交わり」と言います。すなわち、天国にいる信者、煉獄にいる信者、地上にいる信者が、交わり互に手伝い合う交わりです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 5:1-12a

教皇様が最近、聖書の二つのところだけ知っていたら、ある意味で聖書を全部知っているとおっしゃいました。ひとつは、黄金律「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。」(マタイ7:12)と、もうひとつが、今日の福音書にある至福の教え(山上の説教)です。

この本当の幸せになる心を持っているならば、十戒を完全に実行していることになります。だから、わたしたちは度々、わたしは心の貧しいものであるか、柔和なものであるかなどなど、反省しなければなりません。

問題になるのは、ヘブライ語のままに訳されているため、誤解や、わからない文章もあります。ですから、もっと現代的な言い方の訳を記します。

新共同訳 バリョヌェボ訳
3 心の貧しい人々は、幸いである、 欲張らない人(お金を第一と思わない人)は、幸せである、
  天の国はその人たちのものである。 天の国はその人たちのものである。
4 悲しむ人々は、幸いである、 悲しんでいる人は、幸せである、
  その人たちは慰められる。 神が慰めてくださるから。
5 柔和な人々は、幸いである、 優しい人は、幸せである、
  その人たちは地を受け継ぐ。 その人たちは真の(聖)地、すなわち天の国を受け継ぐ。
6 義に飢え渇く人々は、幸いである、 善(義:神の御前に正しい者であること、聖性)を熱望する人は、幸せである、
  その人たちは満たされる。 神がその望みと憧れを満たしてくださる。
7 憐れみ深い人々は、幸いである、 思いやりのある人は、幸せである、
  その人たちは憐れみを受ける。 神もその人に心をかけてくださる。
8 心の清い人々は、幸いである、 清い心をもつ人は、幸せである、
  その人たちは神を見る。 その人たちは神を見ることができる。
9 平和を実現する人々は、幸いである、 平和のために働く人は、幸せである、
  その人たちは神の子と呼ばれる。 その人たちは神の子になる。
10 義のために迫害される人々は、幸いである、 善(義:神の御前に正しい者であること、聖性)のために苦しめられる人は、幸せである、
  天の国はその人たちのものである。 天の国はその人たちのものである。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

山上の垂訓
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Carl Heinrich Bloch (1834-1890)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。