年間第30主日 B年

第一朗読『エレミヤの預言』

エレミヤ 31:7-9

すべての聖徳をパウロは3つにまとめます。それは、信仰・希望・愛(1コリント13:13)です。苦しみの中で希望をもつということは、聖書のすべてを貫き、どこにでもあります。旧約聖書では、その希望は特に追放から帰るという形であらわれ、エジプトから聖地、バビロンからイスラエルなどがあります。今日の朗読は、その帰るということの預言であり、そのことに希望をかけるという呼びかけです。わたしたちは新約時代に生きていますから、本当の聖地(天国)に行くということが希望になります。どんな苦しみの内でも、その希望に支えられるように祈りましょう。

第二朗読『ヘブライ人への手紙』

ヘブライ 5:1-6

ヘブライ人への手紙は、キリスト信者になっていたユダヤ人(たぶんイスラエルの祭司たち)に宛てられた手紙です。今日から年間主日の3回の朗読では、キリストをわたしたちの大祭司として見るように呼びかけます。

たびたび信者はあまり自覚していませんが、ごミサの時のキリスト役割のひとつは大祭司として執り成してくださると言うことです。それと同時に、わたしたちの生贄でもあります。今日の箇所で、旧約時代の大祭司と同じように、キリストが大祭司であるということは御父の決定であるとパウロは強調します。ここだけを見ると誤解しやすいでしょう。旧約時代の大祭司と同じなら、キリストは自分の罪のために生贄をささげないといけません。しかしパウロは、ここではただ御父の決定ということだけ考えていました。このような誤解がありうるということに気が付いたからかもしれませんが、そのあとで、キリストは「罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司」(7:26)とも強調します。

注意)このヘブライ人への手紙は、他のパウロの手紙と同じように、パウロが話したことを他の誰かが書きとめたというわけではありません。昔からの聖書学者たちの考えでは、パウロの協力者(使徒言行録のシラスなど)が、パウロの監督のもとに書き、最後の部分(13:22-25)だけをパウロ自身が書き加えたと考えられます。ですから、その意味で著者はパウロと言えます。同じように、教皇様たちの回勅もたびたび他の人が書いても著者は教皇様と言えます。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 10:46-52

すでにキリストは、自分を「世の光である」(ヨハネ8:12)とおっしゃり、目が見えない人に視力をお与えになりました。今もう一度、ご受難の2週間くらい前頃、同じ奇跡によって、その言葉が事実であることを見せてくださいます。マルコの福音書は、ペトロが話したことをマルコが書いたものですが、ルカとマタイに比べると、目撃者を示す目に映る小さなことが書かれています。たとえば、この目が見えない人については、「上着を脱ぎ捨て」「躍り上がって」と表現されています。

奇跡とは、信仰への呼びかけでありながら、キリストの憐れみ深い心をあらわし、苦しみのない神の国(天国)の片鱗でもあります。そのことを思い出しましょう。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

預言者エレミヤ
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Michelangelo (1475-1564)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。