復活節第3主日 B年(2018.4.15)

第一朗読『使徒たちの宣教』

使徒言行録 3:13-15、17-19

ペトロが神殿の境内で足の不自由な人をいやしたことに驚いて一斉に集まってきたエルサレムの民衆に語った説教の一部です。ここでの「無知」とは、教養や教育のことではなく、悟るべきこと、神の思いに関する「無知」のことです。

イエスの死と復活は、神の指示に目を向けずに犯してしまった、わたしたちの無知を含むすべての罪を、神が赦したことを示す出来事で、この出来事に心を向けて神に立ち帰るとき、救いがもたらされるのです。

第二朗読『使徒ヨハネの手紙』

一ヨハネ 2:1-5a

ヨハネを中心とした共同体の中で、自分には罪がないと主張する異端な人々があらわれたために書かれた批判の書です。「神の掟」とは、「互いに愛し合うこと」(1ヨハネ3:23、4:21)です。

「神の掟を守る」と聞くと、神から人に示された規則をしっかり守ることのように感じられるかもしれません。確かに、マタイ福音書やマルコ福音書での「掟」は、モーセの律法のことですが、ヨハネ文書(ヨハネ福音書やヨハネの手紙)では、御父がイエスに与えた指示、または、キリストが弟子たちに与えた指示をあらわしています。

律法が教える指示の場合、文章化された規則が前面に出てきますが、神やキリストが与えた指示であれば、神やキリストの姿が前面に出ることになり、指示の内容そのものよりも、神やキリストの愛によって従おうとする気持ちになります。

つまり、「神の掟を守る」前に、「神を知っている」ということがあり、「その人の内には神の愛が実現して」いるはずなのです。そのように、心の目が開かれ、イエスの死と復活を悟り、神の愛に触れたものは、神の指示に生きるようになるのです。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 24:35-48

イエスの死から三日目、週の初めの日(日曜日)の出来事で、一緒に食事をしたというのは、イエスが確かに生きていることをあらわすしるしです。

幽霊だと思って恐れおののいた弟子たちに、イエスは手や足を見せました。弟子たちは、死んで復活したイエスだと気づいて喜びますが、まだ、イエスの死と復活が、時空を超えた、すべての人々のための出来事であることを悟っていません。そこで、イエスは「彼らの心の目を開いて」、聖書を悟らせようとします。ここで「開く」と訳された動詞は、「(聖書を)説明してくださった」(ルカ24:32)とも訳されています。

そのことをパウロは、十字架につけられたメシアを理解するためには、神によって召される(呼ばれる)必要があると説きました。神の介入を受けて召された状態にない限り「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(1コリント1:23)にしか見えないからです。

神によって召されて、イエスによって心の目が開かれた者により、「罪の赦しを得させる悔い改めが、...あらゆる国の人々に宣べ伝えられ」、わたしたちは今も、その流れの中で証しを行っているのです。

ペトロにあらわれるイエス
Jesus appearing to Simon Peter
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。