年間第32主日 A年

第一朗読『知恵の書』

知恵 6:12-16

聖書が語る「知恵」とは「知識」のことではありませんし、日本語では表現しきれない意味も含まれています。まず、一般的にも「知恵」は、理性による分析や考察から得られる「知識」というだけでなく、物事の筋道(道理)を理解し、それに従った行動をする実践的な意味を含んでいます。しかし、聖書の説く「知恵」には、神との交わり、今回の朗読で擬人化されているような、神との命の通う生きた交わりが不可欠なのです。

「主を畏れることは、知恵の初め」(詩編111:10、箴言1:7、9:10、シラ書1:14)という言葉が、旧約聖書の知恵文学に多く見られるように、神との畏敬に満ちた親密な交わりこそが「知識」を「知恵」に変えていく力となるのです。

したがって、聖書の説く「賢さ」も、わたしたちが一般的に使っている意味とは異なります。人は、科学で解明されたことを学んだり、生活の中で経験することによって賢くなりますが、その「賢さ」とは、自分が損をしないように生きるための方法(処世術)でしかありません。人に賢明さをもたらすものは「知恵」ですが(知恵8:7)、神との交わり無くして、いのちに至る「知恵」にはならないのです。

新約聖書の時代になり、イエスこそが「知恵」であると解釈されるようになりました。

第二朗読『使徒パウロのテサロニケの教会への手紙』

一テサロニケ 4:13-18、または 4:13-14

キリストの再臨によって、死者もわたしたちも皆、「いつまでも主と共に」いることになります。キリストの十字架と復活は、どのような苦しみにあっても、神はわたしたちをそこに捨て置かないという希望を与えてくれました。

「主の言葉」に身を委ねるなら、死者の復活という途方もない希望が与えられます。死を恐れて悲しむことはなく、死を超える新たないのちを確信して、互いに励まし合って生きることが出来るのです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 25:1-13

十人のおとめは、それぞれ「ともし火」を持っていますが、皆「眠り込んで」しまいます。そして「油」を用意していたかによって「愚か」と「賢い」に区別されています。賢いおとめは、意地悪をしたわけでないはずですから、この「油」は簡単に分け与えることができないもの、人の行末を決める重要なものということになります。

そして、当時の婚宴は、誰もが参加できるもので、戸を閉ざして拒否することは考えられなかったそうですから、閉ざされて入れないことも意味を持っています。つまり、誰も知りえない決定的な瞬間(終末、最後の審判)が迫っているときに準備を怠っていたなら、取り返しがつかないことになるということをあらわしてます。

マタイ福音書では、「ともし火をともして升の下に置く者はいない」(マタイ5:15)という箇所でも「ともし火」が使われています。その光は、人間が作り出す光ではなく、光源はキリストにあり、キリストに関わる者が身に帯びる光で、言葉と行動によって世に示されるものです。

賢明なおとめと愚かなおとめ
Peter von Cornelius - Die klugen und die törichten Jungfrauen
Peter von Cornelius (circa 1813)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。