年間第31主日 A年

第一朗読『マラキの預言』

マラキ 1:14b-2:2b、8-10

レビは、祭司の原型を指し、祭司の模範とされます。「祭司の唇は知識を守り、人々は彼(祭司)の口から教えを求める。彼(祭司)こそ万軍の主の使者」(マラキ2:7)という存在でなければなりませんが、その理想の姿から離れていたため、人々は畏れるべきものを見失い、信仰心は薄れ、自己中心的な生き方が蔓延して、社会が乱れていました。

いつものように祭儀は行われていても、信仰のない形ばかりの礼拝になっていたのです。

第二朗読『使徒パウロのテサロニケの教会への手紙』

一テサロニケ 2:7b-9、13

パウロは、キリストの使徒として権威を主張することもできましたが、へりくだって「幼子」のようになって人々と交わりました。それは、パウロが福音を語るのは、ただ、神に喜んでいただくためであり、人間の評価(地位や名声)を求めていないからです。

どんなに賢い言葉でも、人が語る言葉では、人を根底から動かすことはできませんが、神の言葉は、信じる者の中に働き、人を変える力を持っています。そのようにして、テサロニケの人々が、パウロの伝える神の言葉を「人の言葉としてではなく、神の言葉として」受け入れたことを知り、パウロは神に感謝をささげているのです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 23:1-12

イエスは、高ぶる者である律法学者やファリサイ派の教えを「すべて行い、また守りなさい」と教えます。「モーセの座」に着く彼らの教えには権威があるからです。しかし、「彼らの行いは、見倣ってはならない」と語ります。

律法学者やファリサイ派の人々は、その権威が神に由来するものであることを忘れ、自分を高く見せるためにその権威を利用している偽善者だからです。わたしたちが従う権威は、律法学者やファリサイ派のような権威ではなく、人間の価値観からすれば愚かな敗北とされる、十字架にかけられて死ぬイエスの権威です。

律法学者やファリサイ派は、行うべきふるまいについて細かく規定し、掟を増やし、掟について雄弁に語りますが、自分では「実行しない」者たちですから、その「背負いきれない重荷」によって生じる他人の苦しみには無関心です。

彼らの行いは「人に見せるため」であり、人々から喝采や尊敬を受けることばかりを意識し、神にも人々の苦しみにも目が向けられていません(最も重要な掟、マタイ22:37 -40)。彼らの興味は、自分の学識と名声であって、人々の救いではないのです。

イエスに従おうとするものは、人々から「先生」「父」「教師」と呼ばれるように振る舞ってはならず、ただひとりの教師であるキリストを指し示す者でなくてはなりません。わたしたちは、このただひとりの方の前に立つからこそ、互いに兄弟姉妹と呼び合えるのです。

真の権威を示したイエスは、まず、わたしたちに仕える者となってくださいました。ですから、キリストに倣うわたしたちのうちでいちばん偉いのは、心の貧しいものとなり、自分自身を低くし、へりくだって「仕える」者なのです。それは、資質や努力ではなく、キリストと出会い、神を敬う気持ちから自分を低くすることなのです。

イエスを告発するファリサイ派の人々(detail)
Duccio di Buoninsegna - Christ Accused by the Pharisees (detail)
Duccio di Buoninsegna (1308-1311)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。