年間第27主日 A年(2017.10.8)

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 5:1-7

新共同訳では、「良いぶどうを植え...良いぶどうが実るのを待った」と訳されています。原文では、最初の「良いぶどう」は「選りすぐったぶどう」という意味の語が使われ、「甘いぶどう」(エレミヤ2:21)と訳されてもいます。しかし、二度目の「良いぶどう」は、単純に「ぶどう酒などを造ることができるぶどう」という意味の語で、価値評価は含まれていません。つまり、ぶどう園を整備して、良質の選りすぐったぶどうを植えたけれど、待ち望んだのはごく普通のぶどうでした。それなのに、実ったのは、使い物にならない「酸っぱいぶどう」だったのです。

「裁き(ミシュパト)」は、人間を幸いにする秩序をあらわし、「正義(ツェダカ)」は、神と人間、あるいは人間と人間との関係に対する誠実さを指します。しかし、たくさんの恵みを下さった神に対して、人間社会は「流血(ミスパハ)」と「叫喚(ツェアカ)」で覆われているのです。

第二朗読『使徒パウロのフィリピの教会への手紙』

フィリピ 4:6-9

わたしたちは、心配事を自分のうちに抱えているかぎり、「思い煩う」ことになってしまいます。けれども、神の力強い配慮を信じ、神との人格的な交わりである「祈り」を感謝とともにささげるなら、「思い煩う」ことから解放され、静けさを保つことができます。

感謝とは、神にすべてを任せる信頼です。たとえ苦境にあっても、これまでの神からの恵みと「神を愛する者たち...には、万事が益となるように共に働く」(ロマ8:28)ことを確信するなら、感謝することはできるのです。

当時の異教で説かれていた基本的な道徳が列挙されていますが、キリストを基準として様々な文化や思想を「心に留める」とき、すべては正しく位置づけられ、ふさわしく評価されるはずです。学び、受け、聞いたことを、自分の力だけで実行するには限界がありますが、平和そのものであり、平和を与える神自身が「あなたがたと共におられます」とパウロは約束しているのです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 21:33-43

利益を自己中心的に追求する強欲さが、派遣された跡取り「息子」を殺して、「彼の相続財産を我々のものにしよう」という目論みにあらわれています。

「息子」は、ぶどう園の外にほうり出されて殺され、イエスは、エルサレム城外のゴルゴダで十字架に掛けられました。イエスの死と復活を目の当たりにして信じた人々は、このたとえに出てくる「息子」によってイエスを連想するはずです。そのようにして初代教会では詩編118と結びつけて読み解かれ、42-43節の説明が加えられたと考えられています。

マタイは、「収穫の時が近づいたとき」に、「エルサレムに近づいた」イエスの姿を重ね合わせて解釈しています。「収穫」とは、神がイエスによって実現しようとする救いで、期待を裏切り続ける「農夫たち」は、救いの実現を望む神に反抗し続けているのです。わたしたちの罪は、神に対する甚だしい恩知らずな行いなのです。

息子を祝福するヤコブ
Jacob Blessing his Sons
François Maitre (1475-1480)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。