主の公現

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 60:1-6

預言者イザヤは、幻の中に、恐ろしい暗闇の中で輝く新しいエルサレム、つまり教会の未来の栄光を眺めます。あらゆるところから、遠い国からも、大勢の人々が光を求めてエルサレムに集まります。かつての敵もまことの神に気づいて押し寄せます。その人々の中に、わたしたちもいます。

この光は、みずから発する光ではなく、神から照らされて反射する光です。

第二朗読『使徒パウロのエフェソの教会への手紙』

エフェソ 3:2、3b、5-6

異邦人であるわたしたちが、イスラエル人と同じように信仰と救いに召されていることを、わたしたちは当たり前であるかのように思いがちです。けれども、そうではありません。聖パウロは、初めから神のうちに隠されていた「秘められた計画」に対して驚きを示しています。わたしたちも驚きと同時に感謝をいたしましょう。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 2:1-12

長い間、いろいろな国の教会で「主の公現」は「主の降誕」と同じくらいの大祝日でした。なぜなら、ご降誕の時に、幼子イエスを救い主として認めたのは皆イスラエル人でしたが、ここで初めて、イスラエル人ではない、すなわち異邦人である占星術の学者(博士とも訳され、王とも言われる)たちが、キリストを拝むからです。学者たちは、わたしたちの先駆者です。幼子の誕生が異邦人にも告げられたのは、幼子が実現する救いがすべての人に及ぶからです。ですから、「主の公現」は、わたしたちの信仰の召し出しへの祝いの日なのです。

マタイは、「ユダヤ人の王」という呼び名を十字架につけられるイエスに使っています(マタイ27:11-29・37)。「王」といっても、当時のイスラエル人たちが待ち望んでいたような、力(軍事力、富や権力)によって敵を打ち破る「王」ではなく、ご自分の苦しみと死をとおして罪のゆるしをもたらす「王」、十字架に向かって歩む「王」です。

旅に出た学者たちは、「星」に導かれているときには迷いませんでした。けれども、エルサレムに来てヘロデ王のところに行ってしまいます。「ユダヤ人の王」が生まれるのですから、人間的な考えで街中の立派な建物だろうと思ったのかも知れません。しかし、再び「星」に目を向けて、幼子のいる場所にたどり着くことができました。この幼子こそ、闇に輝く光です。わたしたちも、慌ただしい日常から目線を天に向けて神に聞き、この世的な囚われや思い込みを捨てて導かれなければ、間違って恐ろしいところにたどり着いてしまうかもしれません。

ヘロデ王は、「わたしも行って拝もう」と言いますが、本当は幼子を抹殺しようと考えています(マタイ2:16)。蓄え持っているものを失い、築き上げた現状の生活が変わることを恐れているのです。エルサレムの人々も皆、同様でした。

わたしたちは、学者とヘロデ、どちらの態度をとっているでしょうか。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

キリストを拝む東方三博士
Three kings worshipping Christ
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。