年間第24主日 C年(2016.9.11)

第一朗読出『出エジプト記』

エジプト 32:7-11、13-14

「若い雄牛の鋳像」の礼拝は、すべて罪の代表ですし、シナイ山での神の出現と掟(十戒)を授かってからは、特別にひどい罪でした。けれども、このような罪まで、神のあわれみは及びます。

罪のゆるしを頼むために、いつでも教会が使っていたのは、詩編第51の『ミゼレレ』という歌です。たびたび唱えますから、暗記すべきである祈りです。残念ながら、典礼聖歌集には、この詩編第51のすべてが入っていません。その欠点は訂正されるべきと思われます。

第二朗読『使徒パウロのテモテへの手紙』

一テモテ 1:12-17

神の愛がどれ程大きいものであるか悟るようにと、パウロは自分自身が受けたあわれみとゆるしを喜び勇んで宣言します。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 15:1-32、または 15:1-10

迷った羊一匹を諦めることなく捜し求める『善き牧者』のたとえは、罪人に対する神のあわれみをあらわす古びることのない話です。友であるイエスは、迷った羊を怒ることなくゆるし、喜んで肩に乗せます。

聖ヨハネは、「神は愛である」と書いてくださいました。フランシスコ教皇はたびたび「神はあわれみである」と言われますが同じ意味です。なぜなら、わたしたちは、愛すべきものではなく、それでも愛されるのは「あわれみ」によるという意味です。

しかしながら、時々信者たちは、自分が「迷った子羊」または「放蕩息子」であるということを自覚せずに、自分は「放蕩息子」のお兄さんであると思っています。したがって、愛されるために「あわれみ」が必要であるとは感じません。けれども、もしそんな風に思うなら、このたとえ話だけではなく、ある意味で福音書のすべてがわからなくなってしまいます。

ごミサの初めの回心の時に、口だけではなく、心から自分が罪人であるということを自覚することは非常に大事です。そうでないと、わたしたちの信仰の中心もわからなくなります。

今回の『聖書と典礼』には入りきらないため省かれていますが、『放蕩息子のたとえ話』は、見事に神の愛とあわれみをあらわす、聖書の中心的な箇所です。一般的には『放蕩息子とたとえ話』と呼ばれますが、それよりも『父の愛のたとえ話』と言ったほうがよいかもしれません。なぜなら、主人公は息子ではなく、父親のほうだからです。その父親は、神の象徴です。

「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてしまった。」(ルカ15:11-13)

弟の身勝手な行動は、神に対するわたしたちの罪をあらわしています。彼には権利がないこと(親が生きている間に財産を分けてもらう)を要求しました。父親は拒否することもできましたが、無理に息子を引き止めることはしたくないので、願いを受け入れました。息子はもらった財産を良いことに使うどころか、そそくさと旅立ち、無駄遣いして身を持ち崩してしまいました。

「何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」(ルカ15:14-16)

イスラエル人は豚を不浄の生き物と見なしていましたから、豚の世話をし、その餌を食べたいほど飢えていたというのは、想像を絶するほどのみじめな生活だったのです。息子の回心のきっかけは、決して崇高なものではありませんでした。

「そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。」(ルカ15:17-20)

帰って来た息子に対し、父親はどんな態度をとったでしょうか。ある人は「こんな身勝手な人は、いくら息子でも絶対にゆるさない」、またある人は「雇人として働かせ、お金を全部返してくれたらゆるす」と考えるかもしれません。しかし、イエスはここで、神の象徴である父の愛を強調されています。

「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」(ルカ15:20-24)

たとえ話はまだ続きます。今度は神の愛の心に対立してわたしたち人間の狭い心を指摘なさいます。

「ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(ルカ15:25-32)

イエスは、このたとえ話で神の深い愛を示すとともに、わたしたちに恨みや妬みの悪い思いに負けず、あわれみの態度をとるように呼びかけているのです。

お兄さんの話には嘘があることに、時々気が付きません。けれども書いてあるとおり、父親はずっと前に「財産を(兄弟)二人に分け」ていますから、「子山羊一匹すらくれなかった」というのは嘘です。そのうえ、わたしが正しいものであり、「言いつけに背いたことは一度もありません。」と言っています。罪人であると自覚していない限り、このたとえ話はわからないし、キリストの他の言葉「正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。(マタイ9:13)」という言葉もわかりません。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

良い羊飼い
Good shepherd
Catacomb of Priscilla (250-300)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。