ミサ朗読について
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
「畏れ」は、神の力に対する恐怖だけでなく、むしろ、神が汚れた者に語りかけ、しかも生きていることへの感謝と喜びを含む畏敬の念です(申5:24)。それは、神への愛を掻き立て、この愛が原動力となって、神の言葉に耳を傾けさせます。
ですから、「そうすれば、あなたは幸いを得...」も取引ではありません。掟を実行する力は、ご褒美が引き起こすのではなく、汚れた者に語りかけ、生きる道を示してくれた神への愛から生じます。この愛を忘れず心に留めるときに、掟を遵守することができるため、全身全霊で「あなたの神、主を愛しなさい」と求めるのです。
未来に置かれた「幸い」も、掟を実行させる力になるかもしれません。しかし、過去に確かな事実としてある神の愛が、もっと大きな力を生み出します。神の愛を目の前に置き、未来は神にゆだねる生き方です。
「生きている」と訳された語は「とどまる」〈メノー〉という動詞で、有限な人間存在に対して、神の永続するいのちとの関わりを表すときに使われます。ここではイエスに用いて、イエスは神のいのちにあずかっていると示しています。
「多くの」祭司では成しえなかった罪の贖いを、イエスが「ただ一度」自らを献げて完成させましたが、罪のないイエスは、自分のためのいけにえは不要ですし、自身を献げたのですから繰り返すことはできません。二度といけにえを献げる必要はないのです。
イエスにより、誰もが罪の赦しを得て、神の前に立つことができるようになりました。「恐れ」から解放され、「畏れ」を抱いて神に近づくために、イエスは「わたしたちにとって必要な方」です。
イエスが「第一の掟」で引用したのは、「聞け、イスラエルよ」(申6:4-5)で始まる、ユダヤ人が毎日唱えていた祈りです。神が歴史を通して、わたしたちよりも先に全力で人を愛したことを思い起こすことにより、神への全身全霊の愛が可能になります。
イエスが「第二の掟」で引用したのは、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ19:18)で、自分を愛するときと同じ熱心さで人を愛するよう求めています。
第一、第二とは優劣ではなく順序で、イエスは「この二つにまさる掟はほかにない」と述べることにより、他の掟を相対化しました。ここにイエスの新しさがあります。
律法学者は、イエスの意を正しく汲んで、「神は唯一である」に「ほかに神はない」(申4:35)と付け加え、さらに神への愛と隣人への愛を一つにまとめて、二つの掟が表裏一体であると解釈します。神の愛に出会った者は、隣人への愛に目覚めないわけにはいきません。
律法学者は、イエスがもたらす神の国の入口に立っているため、イエスは「遠くない」と述べました。神から人に向けられた愛は一つであり、それに対する応答も一つですから、イエスのメッセージとユダヤ教の根本指針の間に、大きな隔たりはありません。しかし、律法学者に欠けているのは、この一つの愛をイエスが生きたことを信じることです。
書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父
書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父
毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。