キリストの聖体 B年

第一朗読『出エジプト記』

出エジプト 24:3-8

「主の言葉と法」とは、シナイ山で神から授けられた「十戒」と「契約の書」のことと言えます(出エジプト20-23)。さまざまな形態をとる神と人との交わりが、聖書の述べる「契約」を成り立たせており、相互関係が「契約」という言葉であらわされます。

ここでは、まず「主の言葉と法」が神と民との仲立ちとなり、次に「いけにえ」を通して神と民との交わりが現実となり、最後に「血」が媒介となって神と民とがひとつにされます。

けれども、動物の血は予型にすぎず、この契約を完成させるのは、イエス・キリストです。イエスは、命へと導く「主の言葉と法」を語り、御自身の体を「いけにえ」として神にささげ、御自身の「血」によって贖いの業を成し遂げられたのです。

第二朗読『ヘブライ人への手紙』

ヘブライ 9:11-15

9章では、古い契約と新しい契約のもとでの礼拝が対比され、新しい契約の優位性が示されています。人は自分の罪を自力では償えないため、神は動物をささげることを求めました。旧約の大祭司は、毎年繰り返し、民の罪と自分の罪の贖いのために、律法に定められた動物の血をたずさえて神殿の至聖所(天の幕屋のかたどり)に入っていたのです。

キリストも、大祭司として聖所(幕屋)に入りますが、それは「人間の手で造られたのではない...更に完全な幕屋」(御自身のからだ)であり、キリストの血は「ただ一度」だけ流されて、すべての罪を赦す「永遠の贖い」をもたらす完全なものでしたから、動物をいけにえとする祭儀は終わりを告げたのです。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 14:12-16、22-26

聖なる過越の三日間、聖木曜日のことです。過越祭(パスカ)の食事では、神が民をエジプトから解放したことを記念し、小羊をほふって家族で食べますが、十字架という栄光への道と結びつけられて、新たな意味が加えられました。

ルカ福音書では、イエス自身が準備の指示をしています(ルカ22:8-9)。マルコ福音書でも、直訳では「あなたが過越の食事を食べるために、我々がどこへ行って用意することを、あなたは望みますか」ですから、弟子たちはイエスの意志を尋ねています。

イエスの意志が強調されるのは、いつもの過越の食事とは違った意味をもつ特別な食事、つまり、神の救いの業を過去の記念として祝う食事ではなく、むしろ今まさに新しい契約を成し遂げ、救いの業を完成させる現在として祝う食事になるからです。これは、確かに最後の晩餐ですが、別れを悲しむ晩餐ではなく、新たな過越を祝う晩餐なのです。

日本語の「血」にはまったく欠けた見方ですが、聖書で「血」は生命の担い手とされています(レビ17:11)。イエスは「契約の血である」というモーセと同じ言葉(出エジプト24:8)を使い、旧約の時代には果たせなかった完全な贖いが御自身の血によって現実になると教えているのです。パンが裂かれ、ぶどう酒が飲まれるところには、神の救いの業が現実となっているのです。

イエスはパンを裂き杯を与える
Jesus breaking bread and giving his disciples the cup
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。