ミサ朗読について
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
バベルの塔以前、「世界中は同じ言葉を使って、同じように話して」(創世記11.1)いました。「天まで届く塔のある町」が悪というより、そのことによって「有名になろう(直訳「自分たちの名前を作ろう」)」としたからです。人間が、自分たちの名前にこだわるとき、神の名が忘れ去られ、神のいない社会があらわれて、世界は分裂していきます。
日本語では、「霊」と「風」は別の語ですが、ヘブライ語では同じ「ルーアッハ」です。また、日本語では実体性がつきまといますが、聖書の「霊」は、実態というより、他に与える力をあらわしています。
聖霊降臨のとき、まだ言葉は分かれたままですけれど、聖霊に包まれた理解と一致の可能性が、弟子たちの「舌(=言葉)」によって示されました。天から降った舌を用いて、聖霊が語らせるままに話すとき、一致への道は開かれます。この一致は、相手の言葉にあわせる一致であって、自分の言葉に他人を引き込む一致ではありません。聖霊降臨の主日は、教会の誕生日です。
自力で生きようとする「肉」には「業」が用いられ、神からの力に生きようとする「霊」には「実」(=神の恵み)が使われています。聖書が語る「肉」とは、神からの力を拒んで自力で歩む生き方のことで、直接的に肉欲のことではありませんが、神からの力を拒むかぎり、どんなに思いはあっても、結局、「姦淫、...、敵意、...」に落ち込んでしまいます。
しかし、「霊の導きに従って」、つまり、神からの力に身を明け渡し、神の導きに従う生き方に入るとき、「愛であり、喜び、平和、...」の中を歩むことになるのです。
「弁護者」と訳されている「パラクレートス」は、もともと(ある人の)わきに呼ばれた者、介添人の意味ですから、「助け主」「慰め手」と訳すことも可能です。福音書での用例は、イエスが最後の夜に行った告別説教(ヨハネ13:23-17:26)に集中していますが、ここでの「弁護者」は聖霊のことです。
けれども、別の箇所では、イエスがわたしたちの罪のために御父のもとで執り成す「弁護者」(1ヨハネ2:1)とされます。つまり、わたしたちは、二人の弁護者、イエスと聖霊に守られて、地上を生きているのです。
弁護者(=聖霊)は、御父のもとに戻るイエスが、御父に願い(ヨハネ14:16-17)、イエスに代わって遣わされ(ヨハネ16:7)、いつも一緒にいるようにし(ヨハネ14:16)、真理であるイエスのことをすべて悟らせ(ヨハネ16:13)、イエスの言葉を思い起こさせ(ヨハネ14:26)、イエスの栄光をあらわにします。
イエスが御父のもとに戻るのは、イエスが去って行かなければ、弁護者が弟子たちのところに来ないためですから、弟子たちを「みなしご」にすることではなく、むしろ関係の強化です(ヨハネ16:6-7)。
わたしたちにも「理解できない」「今」はありますが、御父と御子と聖霊はひとつになって、精神的なものとの出会いの中で知る「真理」へと招いているのです。
書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父
書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父
毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。