ミサ朗読について
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
百人隊長コルネリウスはローマ皇帝のための新しい港町カイサリアで、ペトロは古いユダヤ人の港町ヤッファで、互いに幻を見みます。ペトロがヤッファからカイサリアに向かい、異邦人のコルネリウスに洗礼を授けたことは、福音がユダヤ人だけでなく、すべての人に開かれていることを示す象徴的な出来事です。
モーセの慣習に従って割礼を受けたユダヤ人であろうと、ユダヤ人以外の異邦人であろうと、「ただの人間」であり、神は人を分け隔てすることなく、すべての人との交わりを求めて聖霊を授けます。
人間が自分の力だけで他人を愛することは不可能ですから、真に愛し合うことが可能となるのは、神の愛に触れた者だけです。愛の原点は神にあり、「神は愛だからです」。わたしたちの相互愛も、「神から出るもの」ですから、愛する者は神から生まれ、神を知っている者なのです。
神の愛が人間に示されるための道となったのは、神が遣わした独り子です。神は、わたしたちを愛し、わたしたちの罪を放置することができずに、罪を償ういけにえとして独り子を遣わしました。イエスを通して示された神の愛が、わたしたちを造り替え、互いに愛することを可能にするのです。
イエスは、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」と述べたあと、「わたしの愛にとどまりなさい」と教えています。わたしたちに対するイエスの愛は、イエスに対する御父の愛に根ざしたものですから、わたしたちがイエスの愛にとどまるとき、神の愛にとどまることに通じています。
ヨハネが述べる「掟」は、モーセの律法のように文章化された規則のことではなく、御父が御子に、御子が弟子たちに与えた指示ですから、むしろ、その背後にある神やキリストの愛が大事な要素になります。この愛に触れ、喜びに満たされなければ、守ることはできないのです。
そのためイエスは、「わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」と断わり、さらに「わたしがあなたがたを愛したように」と述べてから、「互いに愛し合いなさい」と説いているのです。
わたしたちは、「友のために自分の命を捨てる」イエスに愛しぬかれ、「これ以上大きな愛はない」ほど愛されているからこそ、互いに愛し合うことが可能なのです。イエスの愛は、わたしたちにとって、よりどころであると同時に模範です。
イエスとの繋がりの根拠は、わたしたちにあるのではなく、イエスにあります。イエスは、弟子たちを「友」として選び、「行って、実を結ぶ」ために、神から聞いたことをすべて知らせました。
実を育む力は、神とイエス、そしてイエスとわたしたちをつなぐ「愛」にあります。この「愛」は、おのずと外に広がる力をはらんでおり、人々をその交わりへと招くため、神の指示を行う喜びで満たされることになるのです。
書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父
書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父
毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。