復活の主日

第一朗読『使徒たちの宣教』

使徒言行録 10:34a、37-43

ペトロが異邦人に向けて述べた最初の説教です。内容は、ユダヤ人に向けたものと同じく、イエスの復活と罪の赦しを告げるもので、福音はユダヤ人に限定されず、普遍的であることが示されます。

36-42節は、初代教会の宣教使信(ケリュグマ)で、神がイエスを通して行った救いの業を証しするという強い使命感があらわされています。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 5:6b-8

イエスは、酵母の入った練り粉(パン種)の力を「天の国はパン種に似ている」(マタイ13:33)と良い意味でも使い、神の国が大きく広がることを教えましたが、「ファリサイ派の人々のパン種とヘロデのパン種によく気をつけなさい」(マルコ8:15)と悪い意味でも使いました。

ここでも悪い意味で使われますが、パン種が取り除かれねばならない理由は「古い」からです。わたしたちを罪に閉じ込めていた「古いパン種」は、キリストが過越の小羊として屠られたことによって取り除かれたのですから、罪を赦されて新しい命を生きるわたしたちは、「新しい練り粉」のままでいなさいとパウロは命じます。

「古いパン種」は、「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」(1コリント5:11)を生みますが、取り除かれた者は、これらの悪意を悲しみ、それを取り除く者として生きることになるのです。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 20:1-9

「イエスが愛しておられたもう一人の弟子」は、著者のヨハネともされますが、ある特定の人物というより、イエスの愛に支えられた弟子の理想像を描いていると見られます。

イエスを求めて「墓」に走って行くのは、イエスの復活を理解していないからです。ここで「墓」が7回も使われていることにもあらわれているように、弟子たちのイエスとの関わりは、未来への希望を失い、「墓」をよりどころとして過去にこだわる後ろ向きのものです。

墓から石が取りのけてあるのを「見る(プレポー)」マグダラのマリアは、神の業とは知らず、「人々が主を墓から取り去った」(直訳)と思い込んでいます。亜麻布が置いてあるのを「見る(セオーレオー)」は、詳細に観察する意味ですが、「見る(プレポー)」と同様、ごく普通に目で見ることをあらわします。

しかし、「見て、信じた」の「見る(エイドン)」という動詞には、洞察するという意味合いが含まれ、目的語もありません。この同義語の使い分けは、イエスの最後の晩餐のことば「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なく(セオーレオー)なるが、またしばらくすると、わたしを見る(エイドン)ようになる。」(ヨハネ16:16)にもあります。肉の目で見ることのできる表面的な事物や状況の観察にとどまっていては、信じるということに至れないからです。

その背後を洞察する目が与えられることによって、出来事の本当の意味が理解でき、イエスの出来事の背後に神の働きを悟り、地上(この世)に生きながらも天にあるものを求めて生きることができるようになるのです。

墓の中のペトロともう一人の弟子
Peter and John in the sepulchre
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。