年間第6主日 B年

第一朗読『創世記』

創世記 3:16-19

わたしたちは、生まれながらにして、出世欲や競争心、富と名誉への志向、能率主義や業績による価値評価などにさらされ、考え方や行動パターンも支配されがちです。自分を中心にして考え、自分の思い通りに事が運ぶことを望む気持ち、自分の願望を優先してしまう傾向です。

わたしたちの心の中心には、神と自分の両方がおさまるスペースはありませんから、神を追い出して自分がおさまるか、神に場所を譲るかしかないのです。

神から離れてしまった人への処罰は楽園からの追放で、重荷も背負うことになりました。女は、妊娠と出産に伴う苦痛と、男との破綻した関係がもたらす苦悩。男は、労働の変質です。
楽園での労働は、喜びをもって神に仕えることでしたが、そこに苦痛や空虚さが混ざることになってしまいました。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 10:31-11:1

ギリシアでは、大量のいけにえが偶像にささげられていましたから、その肉が市場に出回ることもありました。パウロは、いちいち詮索せずに何でも食べなさいと説き、もし誰かが偶像にささげられたことを気にするなら、その人のために食べないようにと戒めます。つまり、キリスト者の行動を律する大原則が「神の栄光」にあると説いています。

「神の栄光を現すため」と聞くと、人間の自由を束縛する言葉に聞こえて避けたくなるかもしれません。しかし、「神の栄光」は空しい言葉ではなく、キリストを通して示された確かな現実ですから、実際には自由の意義をいっそう深めるものなのです。「神の栄光」は、人を楽園に戻す十字架という出来事のうちにさん然と示されています。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 1:40-45

直訳では、重い皮膚病の人の「もしあなたが望めば、わたしを清くできる」に対して、イエスは「わたしは望む。清くなれ」と応じたことになります。ここでの「望み」は、イエスの個人的な望みというより、神の「望み(御心)」です。イエスは、神の望みに合わせて「力ある業」を行うのであり、病に苦しむ人を清める手は、世の光によって闇の支配を打ち砕き、神の支配をもたらす手でもあるのです。

イエスは、神の支配の宣教という目的のために、手段として奇跡を行いましたが、人々は自分を中心にした考えのまま、ただ目先の望みをかなえてもらうために奇跡を求め、十字架の出来事を引き起こしたメシアへのゆがんだ期待を増幅させます。人々の目が、神の支配に向かわずに、自分たちの願望を満たすヒーローを喝采するだけになるなら、イエスは「町の外の人のいない所」に留まらざるをえなくなります。

勿論、苦しむ者が解放を願うのは当然で、その努力も必要であるに違いありませんが、もし苦しみにも意味があるとするなら、避けずに担うべき苦しみもあるはずです。イエスが十字架にかけられたのは、すべての苦しみを代わりに担うためであり、苦しみの意義を示すためでした。十字架の出来事によって、神とわたしたちとの隔たりが取り払われ、神の命につながる道は開かれたのです。

重い皮膚病を癒やすイエス
Jesus healing a leper
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。