年間第19主日 A年

第一朗読『列王記』

列王記上 19:9a、11-13a

神は、誰の目にも明らかな「風」「地震」「火」としてはあらわれず、「静かにささやく声」として語りかけられました。深い沈黙の中で、神のことばに出会ったのです。

しかし、エリヤが「あなたの来た道を引き返し...」(列王記上19:15) と告げられているように、神の声は、われわれの願望を満たすとはかぎりません。

第二朗読『使徒パウロのローマの教会への手紙』

ローマ 9:1-5

パウロは、朗読箇所の少し前で「わたしは確信しています。...キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38-39)と述べたばかりです。

キリストを信じる者こそ「神の子」だと確信するパウロは、頑なにキリストを否定して不信仰に留まる同胞ユダヤ人たちを深く悲しみ、自身が「キリストから離され、神から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています」と口走るほどに苦しんで、同胞を思う気持ちを力説します。それは、自らキリストの苦しみにあずかる道でもあります。

わたしたちキリスト者は、神の子キリストを通して神の養子とされ、キリストを長子とする神の家族を形成しています。イスラエルもまた、キリストを長子とする新しいイスラエルに招かれており、そのことをパウロも望んでいるのです。

福音朗読『マタイによる福音』

マタイ 14:22-33

「舟」は教会の象徴で、荒れる「海」は教会(神)に敵対する混沌の力(この世)の象徴とされています。困難の中で行き場を失い、どうにもならない状況に置かれたとき、イエスが不在の「舟」は、風と波に弄ばれてしまいます。

イエスは、「海」の上を歩いて近づきますが、恐怖が弟子たちの判断を狂わせます。信仰の弱い弟子たちをも愛されるイエスは、神の顕現をあらわす定型句「わたしこそそれである」(申命記32:39)を用いて、逆風と荒波という困難の中でも神は共にいてくださることを告げました。言うまでもなく、わたしたちの悪いところを愛するのではなく、その良くないところが良くなるように、わたしたちを愛しておられるのです。

励まされたペトロは、イエスを頼りに水の上を歩こうとしますが、吹き荒れる風を恐れて沈みかけ、救いを求めて「主よ、助けてください」と叫び、イエスに助け出されます。「疑う」と訳されたギリシャ語は、別の考えを持つこと、思いが2つに分かれた状態をあらわします。

残念ながら、わたしたちは度々、ペトロのような者になります。試練が続くと、その愛に信頼を失い、波に沈んでしまうのです。しかし、困難にぶつかり、くじけそうになるときにこそ、イエスはその中に、わたしたちの考えを越えた道を開いて近づかれます。必要な時に、わたしたちが考えられないような方法で、助けに来られます。「来なさい」は、わたしたちにも向けられているのです。恐れず、神に信頼する者に、失敗はありません。イエスに向かって一歩を踏み出すか出さないかだけなのです。

ホレブ山のエリヤ
Elijah in the desert of Horeb
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。