ミサ朗読について
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
知恵の書の著者は、千年以上前の過越の夜の、すなわちエジプトの奴隷状態からの解放を待っていた夜の、神に対するイスラエル人の信頼と祈りの心を思い起こします。わたしたちも、神の助けとみ業を待つときに、同じ心をもつことを祈り求めましょう。
信仰とは何でしょうか。第二朗読で読まれる神のみことばは、優れた信仰をもっていた人、アブラハムの例によって教えてくださいます。その信仰を、わたしたちは持っているでしょうか。
アブラハムは、西暦前1800年頃、今のイラクのウルという町に住んでいた時に、神の命令に従って、目的地をはっきり知らされないまま自分の国(故郷)を去って、何年間も旅を続けました。やっと今のイスラエルの国カナンにたどり着きましたが、年老いて子供がいないにも関わらず、自分の子孫がこの地を受け継ぐことを信じたのです。
さらに、アブラハムは、神様が自分の子供を生き返らせることもおできになると信じていました。結局、大切なことは、第一の掟「神をすべての事よりも愛する」(マルコ12:33)という心があるかどうかということです。
「死んだも同様の一人の人から空の星のように、また海辺の数えきれない砂のように、多くの子孫が生まれたのです」という神のことばの実現が、わたしたちです。聖パウロが言うように、わたしたちが「もしキリストのものだとするなら、とりもなおさず、アブラハムの子孫」(ガラテヤ3:29)なのです。
アブラハムの子供は、イサクと呼ばれ、そのイサクの子供の名は、ヤコブまたはイスラエルと呼ばれました。つまり、わたしたちは、新しいイスラエルの民なのです。ですから「イスラエルよ、神をたたえよ」のような言葉を唱える時、それはわたしたちの事であることを深く自覚しなければなりません。
今回の福音朗読の中で、一番中心的なことではないかもしれませんが、「小さな群れ」という言葉に気を付けるようにしたいと思います。やはり、キリストの弟子に対する、友達やよいお父さんのような気持ちをあらわしています。
時代と人によって、キリストは裁判官のような姿が強調されました。でも、福音書にあらわれるキリストは違います。たしかに、特に自分の弟子に対して厳しいこともありますが、同時にやさしく親しい、友達やよいお父さんのような愛の言葉が多いです。
(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)
書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父
書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父
毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。