年間第10主日 C年

第一朗読『列王記』

列王記上 17:17-24

新約時代のキリストによる救いの業は、旧約時代にもある意味であらかじめしるされます。モーゼによるエジプトの奴隷状態からの救い(過ぎ越し)は、キリストによる永遠の死からの救い(新しい過ぎ越し)をあらかじめあらわすしるしになります。他にも、マナと御聖体などなどあります。

今回の朗読個所では、預言者エリヤによって、キリストがなさった復活の奇跡があらかじめしめされます。とにかく、まことの唯一の神が、死と命の主であります。

第二朗読『使徒パウロのガラテヤの教会への手紙』

ガラテヤ 1:11-19

パウロは、キリストに出会った後の生活を述べて、自分の教えはキリストからいただいたということを強調します。

福音朗読『ルカによる福音』

ルカ 7:11-17

ナインという町は今でもあります。この奇跡の注意すべきところは、ナインは小さな村ですから、このような奇跡が実際に起こったかどうか容易に確認できることです。もし、ルカが作り話を福音書に記したとすれば、ナインの村の人々は抗議したに違いありませんし、そうなればキリスト教の宣教にも大きなマイナスになったことでしょう。イエスの奇跡を否定しようとしていた人々は、結局イエスを殺そうとたくらむようになりますが、それは奇跡が本物であると認めざるをえなかったのです。(ヨハネ11:47-53)

イエスは、出会う人すべてに対して愛を注がれました。「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」(マタイ9:36)人々を見て深く憐れみ、疲れを忘れて慰め、励まされます。「律法を知らないこの群衆は、呪われている。」(ヨハネ7:49) と、冷たく言ったファリサイ派の人々とは正反対の態度をイエスは示されます。「人に対する同情は、人間の弱さである。」と、当時の有名な思想家セネカは言いましたが、イエスはそれとは逆に、人間の苦しみに対してたいへん心を配られました。

今回の福音朗読にあるように、一人息子を失って泣き悲しむやもめには、「もう泣かなくともよい」と声をかけて息子を生き返らせます。また、友人のマルタとマリアが兄弟ラザロを亡くして泣いている姿を見て、イエスは涙を流されます。それを見ていた人々は、「御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか」(ヨハネ11:36)と言いますが、イエスの涙の意味がよくわかっていました。イエスの心は、セネカやファリサイ派の人々とはまったく違うものだったのです。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

やもめの息子を生き返らせる
Jesus raising a young man from the dead in a city called Nain
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。