ミサ朗読について
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
主の公現の第一朗読にもありましたが、もう一度、預言者イザヤからのエルサレムへの励ましの歌です。直接には、バビロンに連行されたイスラエル人に対して、でもいつもの通り、同時に未来の新しいエルサレム、すなわち、教会に対するメッセージでもあります。したがって、わたしたち一人ひとりに対する神様からのメッセージとして聞きましょう。
教会の中には、いろいろな使命(召し出し)がありますが、すべて聖霊から来る恵みです。ですから、対立は無いはずです。みんなが、他の人の使命を必要とします。具体的に現代では、信者が司祭を必要とするだけではなく、司祭たちは信者たちの活動を必要としなければなりません。
「わたしとどんなかかわりがあるのです。」は、「(ぶどう酒が無いことが)あなたとわたしにどういう関係がありますか?」という訳もあります。確かに、『聖書と典礼』にある通り拒絶のように聞こえることばですが、でも、それならなぜマリアは召し使いたちに「そのとおりにしてください」と言ったかわかりません。確かにマリアは、キリストの表情などによって自分の願いに何か応えてくれると感じたのでしょう。これが、キリストの最初の奇跡で、マリアのお願いによって行われました。マリアに取次ぎを求めて祈る由来です。
「わたしの時」とは、『聖書と典礼』にあるように十字架の時を指すところもありますが、他の解釈もあります。わたしの “奇跡を行うために計画して決めた” 時ではないということです。この解釈はずいぶん昔からの解釈です。
新郎新婦がよく準備しなかったことで恥をかかないように助けるために奇跡を行うのは、もったいないと誰かが言いました。けれども、かえって素晴らしいことであると思われます。キリストは、わたしたちの大きな苦しみだけではなく小さな苦しみさえも理解して憐れんでくださるからです。
キリストが、マリアに対して「婦人」と言うのは、おかしいと思うかもしれません。けれども、あの時代には尊敬の意味で使われていましたし、ほとんどの場合、キリストは女性に対して使っています。今でもアラビア語で同じように使われています。
「弟子たちはイエスを信じた。」とありますが、弟子たちは、もうすでに信じていました。例えば、ペトロの兄弟アンデレが、「わたしたちはメシアに出会った」(ヨハネ1:41)と言い、ナタナエルは、「ラビ、あなたは神の子です。あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ1:49)と言っています。けれども、この奇跡を見て、もっと深く信じました。ヨハネはいつでも奇跡を「しるし」と呼んでいます。信じるように示すということです。
(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)
書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父
書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父
毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。