年間第28主日 B年

第一朗読『知恵の書』

知恵 7:7-11

旧約聖書にある本(「箴言」「ヨブ記」「コヘレトの言葉」「知恵の書」「シラ書」)の中で、「知恵」とは、神の御心にかなう生き方を知る「知恵」という意味になります。また、それを知り行うための神の恵みという意味です。つまり、新約聖書の言葉では「信仰によって生きる」と同じような意味になります。現代社会で使っているような、単なる学問的知識や頭の良さという意味ではありません。この「知恵」をどんなものよりも大事に思えるようになるため、この朗読は祈りになります。

第二朗読『ヘブライ人への手紙』

ヘブライ 4:12-13

信仰をもって自分に与えられた神のみことばを読んだり聞いたりする時、どれほど力があるか、この朗読は教えます。ですから、そのような力がない時に聖書のみことばを聞くと、わたしたちは非常に不安を感じるはずです。神のみことばのために、わたしたちの心が閉じてしまっていないか、厳しい反省を促します。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 10:17-30、 または 10:17-27

なぜイエスは「善い先生」と呼ばれることを退けたのでしょうか。この青年は、キリストを単なる人間と思っていたので、唯一の善い方である神と同じように呼ぶことはよくありませんでした。同時に、もしイエスが実際に「善い先生」だったら、単なる人間ではないかもしれないという疑問を投げかけることも入っていただろうと思われます。

この福音書には、喜び・希望・厳しさ・失敗・悲しさがあります。わたしたちはひとつの面だけを見てしまう危険がありますが、そうではなくて、すべてを受け入れ、すべてによって神に教えられるという態度が必要です。キリストが、この青年を慈しんで(愛して)ご覧になるというありがたい言葉であり、同時に、悲しく去ったという青年の失敗です。それは、「金持ちが神の国に入る」ことが非常に難しいということと、神の助けによってその難しさに打ち勝つということでもあります。福音書の中で、好きなものだけを受け取り、好きではないものを無視するという危険に陥らないように祈りましょう。

ペトロと使徒たちに約束されたこの世での報いは、家、兄弟、姉妹、母、父、子供、畑を捨てた人々だけに約束されると思ってはいけません。もっと広い意味で、キリストと福音のために犠牲をはらう人には、この世でも百倍価値のある報いを(たとえ迫害や苦しみがあったとしても)受けるという解釈が正しいと思われます。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。