復活節第2主日/神のいつくしみの主日 B年

第一朗読『使徒たちの宣教』

使徒言行録 4:32-35

今週から、聖霊降臨の日曜日まで、6つの日曜日の間、第一朗読は、普通どおり、すなわち旧約聖書の箇所ではなくて、使徒たちの宣教(使徒言行録)になります。

この使徒言行録は、聖ルカが最初の言葉で述べるように、福音書の継続として書かれました。簡単にではありますが、教会の最初の時代の意味深い歴史です。平日のごミサの朗読で毎日読みますから、その本に馴染むよい機会であります。少し説明があったら、わかりやすい本です。今日の朗読は、最初の時代の信者たちの教会のありさまを私たちに伝えます。愛徳、互に手伝いあう集いでした。私たちの教会・共同体の模範です。

注)使徒言行録(パウロの手紙も)が、私たちにとって難しくなるのは、キリスト教とユダヤ教の関係によるものです。例えば、キリスト信者は、割礼を受けなければなりませんか?割礼を受けないと救われませんか?旧約聖書のすべての典礼的な儀式(断食・巡礼など)を守らなければなりませんか?エルサレムの神殿で祈ることもしなくてよいですか?
これらの問題について、教会がだんだん正しい答えをみつけました。でも時々、どうしようかとわからなくなったこともあります。もっと詳しい説明は長くなるので、ここまでとします。

第二朗読『使徒ヨハネの手紙』

一ヨハネ 5:1-6

ヨハネの手紙は、新約聖書の最後の書物のひとつであり、新約聖書のひとつの頂点です。ほとんど、愛と平和の雰囲気の中で書かれています。だからヨハネは終わりとして、勝利の歌で終わります。私たちの信仰は、世(悪)に勝ちました。本当にまったく知られない田舎の村の娘の「いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ1:48)という言葉が2千年後に実現したことは、大きな勝利ではないでしょうか。それ以上に、犯罪者のように恥ずかしい死刑を受けた人が、神の子として何億人に拝まれることは、大きな勝利ではないでしょうか。けれども、その勝利の叫びとともに、この手紙の最後の方には、ヨハネが心配していることもあらわされています。すでに異端が芽吹いていました。ある人は、「キリストは単なる人間であって、洗礼を受けた時に神の養子になった。けれども、神の養子が十字架の上に死ぬことはできないから、その時にもう一度、単なる人間になったと」と言いました。(こういう異端が、現代でも時々聞こえるし、イスラム教でもこのことを信じています)このことを異端者が簡単に「キリストは、水によって来たけれど、血によっては来なかった。」と、まとめていました。しかし、ヨハネは真反対に強調します。キリストは水と血によっておいでになりました。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 20:19-31

トマスの不信仰は、私たちのために恵みになりました。大勢の人が2千年前の復活の出来事を疑い、使徒たちが復活を望んでいたから、その望みに騙されて信じてしまったと言います。それは、歴史に真反対です。復活の日曜日の朝、マグダラのマリアや他の婦人たちも、ペトロもヨハネも、最初は少しも復活だとは考えずに、単なる遺体の窃盗と考えます。けれども、一番頑固に復活を信じなかったのはトマスです。その頑固な態度は、否むことができない事実によってだけ崩れました。神は、そんなトマスにも慈しみをあらわしてくださいます。私たちも、信じない人々に信じる理由を説明しながら(したがって準備しなければなりません)、同時に慈しみで包むことが大切です。

「見ないのに信じる人は、幸いである。」という言葉は、私たちにとって、とてもありがたい言葉で、忘れてはならないことです。信じるために十分な理由がありますが、信仰はその理由に勝ります。

(文:キリストバル・バリョヌェボ神父)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。