聖金曜日・主の受難の夕べのミサ説教

2020年4月10日・聖金曜日説教

悪からでさえ善を
ヘブライ人への手紙 4:14-16,5:7-9

「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」とヘブライ人への手紙は語っています。その結果、「完全な者」となり、わたしたちの「救いの源」となったというのです。この手紙の著者は、人間の苦しみは、神の前で従順を学ぶために存在すると考えているようです。人間は、苦しみの中で自分の弱さを知り、神への従順を学ぶことによって少しずつ完成に近づいてゆくということです。完全な者とは、神に完全に身を委ねた、完全に従順な者のことであり、どんなときでも神の愛を生きる者のことだと言っていいでしょう。その人には、人類を救う力があるのです。

 「彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」とイザヤ書は語っています。神の子であるしもべ、イエスは人間の痛み、病を知ることによって、ますます神に従順になっていったのです。今回の新型コロナウィルスという病も、わたしたちにとって、人間の力の限界を知り、謙虚になるためのチャンスということができるでしよう。この病が、神の裁きだということではありません。神は、どんな苦しみの中からも、よいものを生み出すことがお出来になるということです。悪としか言いようがない理不尽な苦しみの中からさえ、よいものを生み出し、人類を救うための宝とする力を、神は持っておられるのです。

 現に、この苦しみは多くの人たちの心に愛を生み出しています。人間の限界に打ちのめされながら、それでも決して諦めることなく愛を生きる人たちの中には、確かに神がおられます。この苦しみの中でも、神の救いの業は確かに行われているのです。例えば、多くの医師たち。彼らの中には神を信じていない人もいるかもしれませんが、「どれほど強力な病だったとしても、目の前で苦しんでいる人を見殺しにはできない」という一心で働いていることは間違いありません。少なくとも、わたしはそう信じています。神を信じていなかったとしても、彼らの中には間違いなく神の愛が宿っており、彼らは神の愛を生きているのです。自分の弱さを知りながら、それでも愛を貫こうとする彼らの中には、確かに人類を救う力があります。

 わたしたちに求められているのも同じことです。パンデミックのような大きな話でなくても、日々の生活の中で、家庭や職場の人間関係の中で、さまざまな苦しみを味わい、自分の弱さを思い知らされることは多いでしょう。「なぜ、こんなに苦しまなければならないのか」と思うことだってあるかもしれませんが、そんなときこそ完成に近づくためのチャンスなのです。理不尽としか思えない苦しみの中で、「それでも、わたしはあなたの愛を生きたいのです。神さまお助け下さい」と祈るとき、わたしたちの心を神の愛が満たします。この地上にはびこる悪の中から、この地上で最も美しい宝、神の前での完全な謙遜と、愛に満たされた心が生まれるのです。

 苦しみの中で叫び声を上げ、涙を流したとしても、それは構いません。イエスでさえ、同じように苦しまれたのです。大切なのは、何があっても希望を捨てないこと。神にすべてを委ねる信仰を持ち続けることです。多くの苦しみによって謙遜を学び、完全な者となられたイエスの後についてゆけるよう祈りましょう。

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