年間第17主日 B年(2018.7.29)

第一朗読『列王記』

列王記下 4:42-44

「主の言葉」の力強さと「主の言葉」への信頼が強調されています。今回の福音でのイエスも同じですが、エリシャは、奇跡を引き起こすために、大仰な仕草や呪文まがいの言葉を使っていません。奇跡を引き起こした主役は「主(神)の言葉」であって、エリシャは奇跡の場に居合わせただけなのです。

第二朗読『使徒パウロのエフェソの教会への手紙』

エフェソ 4:1-6

神が一つなのだから、神から与えられるものはすべて「一つ」であり、「一致」へと向かうことができると説かれています。6つの節のうち5つの節に、前置詞「中で」の前置詞句が使われ(主の中で、愛の中で、平和のきずなの中で、一つの希望の中で、すべての中で)、キリスト者の特徴が表されています。

キリスト者とは、すべてのものの内にあって唯一である「神」が派遣した「主キリスト」に結ばれた者であり、主に結ばれることによって「愛」と「平和」と「希望」の中に生きる人のことです。「愛」「希望」「平和」のすべては、神が招き入れてくださった恵みであり、この恵みの中で「霊による一致」を保てるのです。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 6:1-15

「五千人に食べ物を与える」という物語は、四福音書のすべてに書かれています。わたしたち現代人が、このような奇跡物語を読むと、どのようにして増えたのか、その事実性に興味を持ちますが、どこにも「増えた」とは書かれていません。

ヨハネ福音書は、「カナでの婚礼」に始まるイエスの奇跡を「しるし」と呼び、出来事を通して真理を知るための「しるし」として物語を述べます。聖書における「山」は、聖なる出来事の起こる場であり、神との出会いの場ですから、ヨハネはこの出来事をイエスの神性を示すしるしと見ていると言えます。ヨハネ福音書は、この物語のあと、イエスこそが天から降って来た命のパンであり、永遠の命を与えることが明らかにされます。

大勢の群衆がイエスの後を追ったのは、「ベトザタの池で病人をいやす」(ヨハ5:1-18)出来事の中に「しるしを見たから」で、人々はイエスを「預言者」と認めていますが、十分な信仰に至っていません。そのため、イエスを「王(政治的な指導者)にするために連れて行こうと」し、イエスは山に退かれています。

人々が考える「預言者」や「王」は、自分たちの願望を実現するための手段なのであって、イエスの果たそうとしていることとは似ても似つかぬものです。そこに、人々の間違いがあります。世の人々は、自分たちの思いにすぎないことを神の思いとみなし、自分たちが神から離れ、神の思いから外れていることを理解しようとしません。

イエスは「預言者」であり「王」ですが、人々が考えるような「預言者」や「王」ではなく、わたしたちの思いを高く超えている"神の思い"を地上に示す仲介者なのです。利用しようとするのではなく、願望(自分の思い)を乗り越えてイエスを追い続け、イエスが指し示すものに心を開くことが大切なのです。

群衆への供食
Feeding the multitude
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。