年間第14主日 B年

第一朗読『エゼキエルの預言』

エゼキエル 2:2-5

ここでの「霊」は、神からの息吹であり、人を使命の担うことのできる人間へと作り変える力で、変えられた人は「語りかける者(=神)に耳を傾け」ることになります。

エゼキエルの使命は、神の言葉を語ることですが、その相手は、神に逆らう「恥知らずで、強情な人々」であり、耳を傾けるはずがない「反逆の民」に「主なる神はこう言われる」と回心を呼びかけねばなりません。

今回の箇所の後には、「人の子よ、あなたはあざみと茨に押しつけられ、蠍(サソリ)の上に座らされても、彼らを恐れてはならない。...彼らの言葉を恐れ、彼らの前にたじろいではならない。」(エゼ2:6)という戒めもあります。

苦しみが襲うのは当然ですが、「わたしは苦々しく、怒りに燃える心をもって出て行ったが、主の御手がわたしを強く捕らえていた」(エゼ3:14)と述べているように、エゼキエルは「主の霊」に捕まえられて使命を担い、預言者としての道を歩み始めます。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

二コリント 12:7b-10

コリント教会に「偽使徒」があらわれ、それらの人々は「自己推薦する者(主を誇らず、自分を誇る者)」でした。コリントの信徒はパウロを見下し始め、パウロは使徒として忠実に歩んできたことを切々と訴えています。

「とげ」が具体的に何かは不明ですが、解放を「三度」主に願ったほどの苦しみであるのは確かです。しかし、この苦しみには積極的な意味があると知ったパウロは、もはや解放を祈ることはせず、それを受け入れる生き方へと変わり、「わたしは弱いときにこそ強い」と断言します。

「弱い」からこそ、主の「恵み」と「力」が、そのような「あなた」に働くのであり、苦しみの中にあって力を発揮できるのは、主が働くからなのです。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 6:1-6

第一朗読にもあるように、自分の民(同胞)に派遣されているのに、受け入れられず排斥される話は、聖書にしばしば繰り返されますが、イエスの故郷でも同様でした。故郷の町ナザレの人々の「驚き」は、非難のこもったものに変わっていきます。

もし、イエスのすばらしい教えや奇跡は「どこから(起源)」の「何か(本質)」と問い続けるなら、いつかはイエスの正体にまでたどり着けるはずですが、自分の今の知識にたって(簡単に思い込みで)答えを出し、「大工ではないか」「マリアの息子で、...兄弟で...。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んで...」と続け、「驚き」は「つまづき」に変わってしまいます。

人々は、イエスを理解しようとせず、「どこから」「何か」という問ではなく、イエスにつまづいたのです。

日本語にはない意味ですが、「つまづき」と訳されたギリシア語〈スカンダロン〉は、もともと「わなに仕掛けられた木の棒」を表し、聖書の「つまづき」の根本には「人をつまずかせるわな」があります。

問い続けるには忍耐が必要ですが、もし出来合いの答えにとどまるのが普通の状態なのであれば、わたしたちは「反逆の民」なのであり、神から派遣された者を苦しめてしまうことになるのです。

ナザレで受け入れられないイエス
Jesus reviving Jairuss daughter
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。