ミサ朗読について
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
わたしと共に 目を覚ましていなさい
マタイ 26:38
場所の移動としての捕囚地から帰還は、キュロスだけで可能ですが、僕であるべきイスラエルを神のもとへと戻すために、イザヤは「僕」とされました。けれども、イスラエルの民は、聞こえる耳を持っていながら何も聞こえず、イザヤの声に耳を傾けません。
「しかし」は「ところが実は」の意味で、「いたずらに骨折」ったという思いが間違いだったことをあらわしています。人間としての思いに留まれば、捕囚民の冷笑に傷つき、徒労感しか残りませんが、神へと目を向けるとき、「ところが実は」という人間の常識を超えた神の計画に基づく世界に気づかされ、苦悩を担うことができるだけでなく、その苦悩こそが歩むべき道だと悟り、神のもとでの裁きと報いを待つことができるのです。
神がダビデを王としたのは、ダビデが神の「心に適う者」で、神の「思うところをすべて行う」からですが、イエスも「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(マタイ3:17)と呼ばれています。しかし、直訳では、ダビデは「わたしの心に従う者」で、イエスは「わたしが気に入った者」となります。つまり、イスラエルの王は、神に従う者でなければなりませんが、神を満足させることができる王は、十字架の死に至るまで神に従ったイエスのほかにはいないのです。
人々の心をイエスへと向けさせたヨハネも、神の思いに従って務めを果たした者の一人で、イエスによって与えられる救いに先立って道を整えた最大の預言者ですが、ヨハネが神の思いに従ったのは、神を満足させるのは自分ではなくイエスであり、自分はイエスの「足の履物をお脱がせする(=僕の仕事)値打ちもない」と認めていたからです。
洗礼者ヨハネとイザヤがそうであったように、人がふさわしい行動をとれるのは、神の計画に気づいているときなのです。
天使の言葉を信じなかったザカリアは、ヨハネが誕生するまで、そのしるしとして口がきけなくなっています。
子に恵まれずに年老いたエリサベトから男の子が生まれたので、人々はごく自然な同情心から「喜び合い」ました。しかし、父母が一致して習慣に従わずに「ヨハネ」と名付けると言うので、常識はずれの命名だけでなく、ザカリアの意思を知らないはずのエリサベトと考えが一致したことに「皆驚いた」のです。この子の誕生は普通ではないという気づきが含まれた驚きです。さらに、口がきけるようになったザカリアが、神への賛美を始めたので、「皆恐れを感じ」ます。
「この子には主の力が及んでいたのである」とあるように、「恐れ」は主の力への「畏れ」で、人間を超えた神的な力に気づいた畏れですが、「驚き」がつまずきに終わることもあります。このような変化は、信仰が育まれていく過程と言えますが、ごく自然な感情から始まり、そこに驚きを見つけ、習慣や常識を否定する事実に出会い、驚きが畏れに変わるとき、信仰が芽生え始め、習慣や常識を超えたメッセージを信じることができるようになるのです。
書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父
書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父
毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。