年間第11主日 B年(2018.6.17)

第一朗読『エゼキエルの預言』

エゼキエル 17:22-24

「若枝(=メシア、神が立てる理想の王)」にたとえて、捕囚地バビロンからの帰還とダビデ王朝の復興が預言され、「あらゆる鳥(=異邦人)」が、その木陰に住むほどになり、「野のすべての木々(=諸国)」は、歴史を導くのは主であると「知るように」なると語られています。

枝の先の小さく弱い部分、「柔らかい若枝」が大木になるのですから、自身の力で成長するというより、枝を通して働く力がそれを行うということです。

エゼキエルの預言で「知るようになる」という言葉は、裁きにも救いにも用いられますが、神はイスラエルが道を踏み外そうとするとき、裁きを用いてまでも引き止めるからです。神が捕囚を許したのは、裁きの中にも慈しみがあることを知らせるためでした。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

二コリント 5:6-10

人間が体を住まいとしてこの世に生きるとき、「主のもと」を離れてはいますが、主との交わりは完全に断たれていません。なぜなら、キリスト者は、「天から与えられる住みかを上に着」ることを保証する「霊」が与えられているからです。死は、わたしたちを「裸のままで」終わらせる出来事ではなく、「天から与えられる住みかを上に着」させる出来事なのです。

この世を生きるキリスト者にとって、キリストは不在なのではなく見えないだけで、わたしたちは「目に見えるものによらず、信仰によって」歩んでいます。なぜなら、最も大切なものは目には見えないからです。この目に見えないものを信じる信仰が、「主のもと」を離れていても、主とともに生きる歩みを可能にし、住むべき自国を持っているから、いつも「心強い」いのです。キリスト者の希望は、神から来ます。

「ひたすら...ありたい」と訳された語は、もともと「名誉とする」を意味します。主に喜ばれる者になりたいという思いで生きることが、キリスト者の栄誉であり、神からの恵みへの感謝であり、神のもとへ行こうとする願いのあらわれでもあるのです。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 4:26-34

種は「ひとりでに(目に見える原因もなく)」成長するように見えます。農夫は、水をまき、草を抜きますが、それは作物を成長させる主要な原因ではなく、神の補助者にすぎません。「神の国」も、人の手を通して成長しますが、人の手の中にあるのではありません。神の国をもたらすのは、人の働きではなく、神の働きなのです。

どの種よりも「小さい」からし種が、どの野菜よりも「大きく」なるように、神の国も、撒かれるときには人の目を奪うほどではない「小さい」ものでも、御心ならば神によって導かれて、想像を超えるほど「大きな」ものとなります。

どちらも、すべてを導く神への信頼を呼びかけるたとえ話ですが、そのことに気づくなら、いつも心強く生きることができます。農夫は、種の成長の秘密を知らず、収穫時期も操作できませんが、補助者として働きながら、不安に脅えず、思い煩わず、豊かな実りを信じて忍耐強く待ちます。わたしたちキリスト者も、大きな実りをもたらす目に見えない神の働きを信じて待ち続けるのです。

からし種のたとえ
Teachings of Jesus 5 of 40. parable of the mustard seed. Jan Luyken etching. Bowyer Bible
Jan Luyken (Biblia Bowyer)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。