主の昇天 B年(2018.5.13)

第一朗読『使徒たちの宣教』

使徒言行録 1:1-11

ルカ福音書23-24章に詳述された出来事の要約で、2つの書が結び合わさる部分ですが、使徒言行録では、「聖霊」の働きに重点が移されています。イエスもそうだったように(ルカ3:21-22)、宣教のためには「聖霊」の力が必要だからです。

しかし、弟子たちは、宣教よりも政治的な解放に期待を寄せて、それは「この時ですか」と尋ねたため、イエスは、「神の国」の完全な到来のために果たすべきなのは「地の果てに至るまで、わたしの証人となる」ことだと教えます。

天使が告げるように、イエスの再臨は確かな約束ですから、「天を見つめて」立ち尽くすことなく、宣教という使命に専念できるのです。

第二朗読『使徒パウロのエフェソの教会への手紙』

エフェソ 4:1-13、または 4:1-7、11-13

地の果てに至るまで、至るところで宣教するためには、キリストの体である共同体(教会)として、内側を整えることにも心を砕かなければなりません。この手紙では、キリストの福音に基づく新しい生き方が提示されています。

「結ばれ」「内に」などに訳し分けられていますが、6節までに「中で(エン)」という前置詞が5回も使われています。ここでの「愛」「平和」「希望」は、人間が自分の力で作り出す能力ではなく、神が関与する能力だからです。対して、7節からは「中へ(エイス)」という前置詞が7回も使われ、「中へ」と向かうべき目標が描かれてます。そうして、一致が生まれるのです。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 16:15-20

聖書の説く救いは、出来事に基づいていますから、ある時ある所で起こった出来事に関わりのない人たちは、告げ知されて、それを聞いて信じることがないかぎり、救いにあずかることはできません。ですから、宣教は、聖書の信仰にとって不可欠です。しかし、宣教者に、イエスとの関わりを確証するしるしが伴わなければ、その言葉を聞いても信じることは困難です。

「伴う」と訳されている動詞は、「信じる者には次のようなしるしが伴う」では「わきを付き従う」といった意味で、「それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」では「何か(誰か)の後を追って付き従う」といった意味です。つまり、宣教者のわきを付き従ってしるしが進み、語る言葉の後を追って付き従うしるしがあるため、その言葉が空虚ではなく真実であることが確証されるのです。

「わたしの名によって悪霊を追い出し...」とあるように、しるしは、イエスの名によって起こされます。神の救いの計画を成し遂げるために十字架で息を引き取り、神が復活させた神の子、イエスの名を通して、神はしるしを行うのです。

ですから、蛇をつかむ「手」は、もはや宣教者自身の手というより、イエスの名によって働く神の「手」です。「新しい言葉を語る」は、直訳で「新しい舌で語る」となりますが、この「舌」も、宣教者の舌ではなく、イエスの名によって働く神の「舌」です。大切なのは、蛇をつかむという結果ではなく、イエスの名によって神の「手」となっているかという事実なのです。

天に昇るイエス
Jesus ascending into heaven
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。