受難の主日/枝の主日 B年(2018.3.25)

第一朗読『イザヤの預言』

イザヤ 50:4-7

第二イザヤ(イザヤ40-55)には、4つの『主の僕の歌』があり、今回の朗読箇所は、第三歌の一部です。この「僕」は、初代教会からキリストの姿と思われてきました。

神との「朝ごと」の交わりによって、神は「弟子としての舌」を与え「耳を開かれ」、「疲れた人を励ます」ために言葉と耳が呼び覚まされていきます。迫害に対して「退かなかった」のは、ただ人間の個人的な能力によって耐え忍んだのではなく、朝ごとの神との関わりから力を受けていたのです。神の意志をそこに見ているから、苦しみを甘受できるのです。

苦しみのうちに、しっかりと神の計画を見ることによって、「顔を隠さずに、嘲りと唾を受け」ることが可能になるのです。

第二朗読『使徒パウロのフィリピの教会への手紙』

フィリピ 2:6-11

初代教会の『キリスト賛歌』と言われている箇所です。キリストと神との連携のように、人が「自分を無にし(=空っぽにし)」「へりくだって(=身を低くして)」いることができるのは、「与え」「高く上げ」る神を信じることができるときです。

「すべて、イエスの御名にひざまずき」は、直訳で「すべての膝がイエスの御名の中でかがみ」となりますが、ここでの「膝」や次節の「舌」は、ただ人間の体の部位をあらわす表現ではなく、むしろ、ひざまずくべきものを持った幸いな人、真に告白することのできる真実に出会った幸いな人を表しています。

受難の朗読『マルコによる主イエス・キリストの受難』

マルコ 15:1-39

イエスが、自分のことを捨てたとしか見えない神に向かって「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と呼びかけ応答を求めたのは、神の沈黙の背後に、まだ見えない神の計画が必ずあると信じているからです。この嘆きは、詩編22の冒頭で、詩編全体は絶望の叫びではなく、苦難の中で神に信頼する祈りになっています。

「そばに居合わせた人々」の中には、十字架で叫ぶイエスが、エリアに助けを求める哀れな罪人だと見た人々がいて、苦痛を長引かせるために「酸いぶどう酒」を飲ませようとしました。しかし、「そばに居合わせた人々」と同じ動詞(パリステーミ)でも、「そばに立っていた」百人隊長にとっては十字架が別物に見え、「イエスの方を向いて、そばに立って」「本当に、この人は神の子だった」と告白したのです。

イエスのそばに同じようにいたとしても、心が遠くにあるとき、十字架は「ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなもの」(1コリント1:23)でしかありません。しかし、イエスの方を向いて、十字架のそばに立つとき、神の救いの業を見て取ることができるのです。

神は、イエスの叫びに答えて、大祭司だけが年に一度入ることのできる至聖所の前にかけられていた神殿の垂れ幕を上から下まで真っ二つに裂いてしまいます。イエスの死は、すべての人に神との直接的な交わりを可能にする出来事であり、新しい契約が成就したしるしとなっています。そして、異邦人も神との交わりに招かれることになります。

ピラトの前に連れて行かれたイエス
Jesus brought before Pilate
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。