四旬節第5主日 B年(2018.3.18)

第一朗読『エレミヤの預言』

エレミヤ 31:31-34

新しい契約とは、新たな律法ということではありません。シナイ契約(十戒)では、律法が石の板に書き記されましたが、「新しい契約」では、「胸の中」に授け「心に」記すということです。「来るべき日」は直訳で「これらの日々の後に」となります。つまり、以前とはまったく異質の日々、神の介入によってもたらされる日々が来るというのです。

捕囚を嘆く預言者エレミヤの胸中には、エレミヤの言葉を聞き入れず背信によって古い契約を破った民の愚かさを責める思いと、自分の努力不足を悔やむ思いとが去来していたでしょうが、そのような希望のないところで、神への絶対的な信仰をあらわしました。それは、確実な計画に基づく計算(予言)ではなく、希望と信頼に基づく確信の信仰告白です。神への信頼に立つとき、嘆きの中にも静けさを手にすることができるのです。

第二朗読『ヘブライ人への手紙』

ヘブライ 5:7-9

旧約時代に動物を「いけにえ」としてささげていた人間の大祭司と、ご自身を人々のために「いけにえ」としてささげ、願いと祈りが神によって聞き入れられる偉大な大祭司キリストが比較されています。

イエスは、「わたしたちの弱さに同情できない方ではなく...わたしたちと同様に試練に遭われたのです」(ヘブライ4:15)。キリストは、神の「御子(息子)」でありながら、苦しみによって神の救いの計画に聞き従われ、苦しむ者と共にいる神の子となられました。神は、キリストによってわたしたちの心に「新しい契約」を書き込まれ、キリストは、すべての人々の「永遠の救いの源」となられたのです。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 12:20-33

わたしたちも、地に落ちて死ぬ一粒の麦のように死ぬイエスのうちに栄光を見るとき、真にイエスに「お目にかかった」ことになります。

イエスが十字架に上る「時」は、人の子が「栄光を与えられる」時であり、神の救いの計画が成就する時、すなわち御名の栄光が現される時です。

「既に栄光を現した」「再び栄光を現そう」は、「栄光を与える(ドクサゾー)」という動詞の過去形と未来形です。十字架に至るまでのイエスの歩みも神の栄光の現れでしたが、これから十字架で始まるイエスの歩みは、人々に豊かな実りをもたらすことになる神の栄光の現れだからです。

わたしたちの「栄光」は、地上的(この世的)な成功のうちにはなく、十字架のうちにあります。このような栄光を知る者の前には、二つの道、すなわち「自分の命を愛する」道と「自分の命を憎む」道が置かれています。「自分の命を愛する」とは、この世の命に固執して、それを自分のために使おうとする生き方のことです。「自分の命を憎む」とは、命を粗末にすることではなく、この世で与えられた時間を、御心が行われるように、永遠の命のためにささげる生き方のことです。イエスは、その模範となられたのです。

イエスを十字架から降ろして墓の中に納めた
Joseph of Arimathaea lying the body of Jesus in his own tomb
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。