四旬節第3主日 B年(2018.3.4)

第一朗読『出エジプト記』

出エジプト記 20:1-17 または 20:1-3、7-8、12-17

民に熱い思いを持つ「熱情の神」は、他の神々に心を向けることを禁じますが、不寛容とも言える態度は、異なる宗教間対立に苦しむ現代において、容認しがたいと感じられるかもしれません。

確かに、神への「熱意」が独善と結びついて謙虚さをなくすなら、恐ろしいことになります。しかし、「主の名をみだりに唱えてはならない」とは、神を利用して自分の願望を叶えようとするご都合主義を封じるためであり、安息日規定も、七日目には仕事しないことで神の業を思い出すためです。

人間が神を利用するのではなく、自分の思いを神の思いとせずに神の導きを待つとき、独善を避けることができます。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 1:22-25

人間的な知恵では思いも及ばない手段、つまり「十字架につけられたキリスト(メシア)」によって救いを実現した「神の知恵」が語られます。

わたしたちは、十字架の出来事に答えを見出したため、もはや「しるし」を求めたり、「知恵」を探す必要がありません。

人間的な見方に留まる限り、「神の力」を神の弱さとみなし、「神の知恵」を神の愚かさと見誤ってしまいます。神が人の目を開かなければ、メシアにふさわしくない屈辱的な十字架の刑罰は、つまずきにしかなりません。

しかし、どの国の人であっても、神に「召される」ということがあるなら、そこに「神の力」「神の知恵」を見出すことができます。そうなると、十字架を「愚か」と見るこの世の知恵の方こそ「愚かなもの」でしかなくなります。

つまり、キリストによる十字架の出来事は、知恵や賢さの基準をも逆転させました。わたしたちは、そのような価値観のうちに生きているのです。

福音朗読『ヨハネによる福音』

ヨハネ 2:13-25

神殿から商人を追い出す出来事は、他の福音書ではイエスの受難直前ですが、ヨハネの福音書では活動の初期とされています。また、動物を神殿から追い出したことに言及しているのは、神への「熱意」に生きるイエスが、ご自分の体を動物に替わってささげられるときが到来したことを示すためと考えられます。

遠方からの巡礼者が動物を連れて旅をするのは大変ですし、傷のある動物は献げ物として認められないため、神殿の境内で検査済みの動物が売られていました。また、神殿税として納めることができるのは古いヘブライ貨幣だけでしたが、日常生活ではローマやギリシアの貨幣が使われていたため、両替商もいたのです。

便利で親切とも感じられますが、利権が存在するところには不正も容易に生じるため、当初の目的から逸脱して神殿が利権の巣となっていたことを、神の「熱情」に応える「熱意」から、また、悪の存在をうやむやにはしない誠実さから、イエスは容認できなかったのです。

神への「熱意」が独善と結びつくとき、排他的な不寛容を生み出す危険があります。しかし逆に、神への「熱意」を無くして御心を求めないなら、何をどのように行うべきか、確信に基づく行動は取れなくなり、ときには寛容も無関心なだけとなってしまいます。

神殿から商人を追い出すイエス
Christ driving the money changers from the temple
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。