四旬節第2主日 B年(2018.2.25)

第一朗読『創世記』

創世記 22:1-2、9a、10-13、15-18

アブラハムは、神の道を忠実に歩もうとする信仰の模範として創世記に描かれています。「愛する独り子」をささげよとの要求は、まさに不条理ですが、もし、神は人を滅ぼさず生かしてくださるという信仰に立って、困難を清めのための神からの試練と受け止めることができるなら、事態は変わり、道は開かれます。

ヘブライ語の「おそれる(ヤーレー)」は、恐怖や身の危険を感じたり、災いを予感したり、畏れ敬うという意味では日本語と同じですが、さらに「正しく生きる」「礼拝する」という意味合いがあります(申命記31:12-13)。

それは、日本の自然宗教(自然発生して無意識に先祖から受け継がれた宗教)では、初詣やお盆のように風土や習俗と関連が強く、神を畏れるということがただ畏敬の念に終わり、行動へ駆り立てる力は仲間にあるからと考えられます。

聖書が教える神は、人間との人格的な関わりを強く求める超越者で、神を畏れるということが畏敬の念に終わることなく、正しく生きるというような、心を奮い立たせて行動へと駆り立てる力になるのです。

第二朗読『使徒パウロのローマの教会への手紙』

ローマ 8:31b-34

「だれがわたしたちに敵対できますか」「だれがわたしたちを罪に定めることができましょう」と言い切れるのは、神が「わたしたちのために」イエスを通して行った愛の業を知って信じているからです。それが、新約聖書において神への畏れを引き起こす原点です。

アブラハムが抱いていた神への畏れは、人間を超えた超越的な存在に対する畏敬の念です。しかし、パウロが抱いた神への畏れは、神への畏敬の念だけでなく、神が示した愛に対する信頼によって作り上げられています。そのような神への畏れを持つとき、芯の通った生き方ができるのです。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 9:2-10

この出来事の前にペトロは、「あなたは、メシアです」(マルコ8:29)とイエスに告白していますが、その理解は不十分で、イエスが受難予告をするとイエスをわきへお連れしていさめたため、イエスに「サタン、引き下がれ」と叱られています。

イエスは、死ぬメシアであり、神が「これはわたしの愛する子」と教えるほどの方だったのですが、それでもまだイエスの正体を完全に把握できず、弟子たちと「死者の中から復活するとはどういうことか」と論じ合っており、復活もまだ理解できていません。

ペトロの「恐れ」は、彼らの理解とイエスの本質との間の落差を示すしるしとなっていますが、復活の出来事によって、イエスの本質をすっかり理解することにより、神を賛美し、神を崇拝する心(畏れ)に変わっていきます。

アブラハムは目を凝らして「見回し」、イサクに換えて献げることのできる雄牛を見つけました。弟子たちは急いで辺りを「見回し」、イエスだけに気づきました。神と人間を結ぶ絆は、雄牛からイエスに換えられたのです。

アブラハムとイサク
Abraham and Isaac at mount Moriah
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。