年間第5主日 B年(2018.2.4)

第一朗読『ヨブ記』

ヨブ 7:1-4、6-7

詩編(39:5、90:10)でも歌われるように、人生の終わりには、それまで積み上げてきたこの世のものが何の支えにもならないと思い知らされます。さらにヨブの場合、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかかっていました。

しかし、それらを納得できるような罪を見出すことができず、苦しみと失望のあまり嘆かざるをえません。しかし、詩編(39:7、90:17)と同じく、ヨブも「忘れないでください」と祈り、絶望と信頼との間を行き来しながら、祈る心を奮い起こそうとしています。

労苦が喜びとなるためには、絶対的な意義に触れる必要があります。ヨブも絶対者である神に苦しみからの解放を求め、苦しみの意義を理解させてほしいと祈りました。

第二朗読『使徒パウロのコリントの教会への手紙』

一コリント 9:16-19、22-23

自分の働きに対して報酬を求めるのは自然なことであり、金品に限らず、ねぎらいの温かい言葉であっても、わたしたちは報いを求めてしまいます。しかし、パウロは報酬を求めません。それは、労苦が喜ぶべき報酬となりえるからです。

「当然持っている権利を用いない」とは、福音を告げ知らせる人は、そのことによって生計を立てることが出来るという権利(1コリント9:3-12a)のことです。パウロにとっては、権利よりも使命が勝り、さらに自由よりも使命を優先させて「すべての人の奴隷」となるために自由さえ使います。

パウロは、どんな苦しみであっても、キリストと神の愛から引き離すことはできないと断言しています(ローマ8:31-39)。まず、無条件の神からの愛が先にあり、そのような愛を知ったことが、どんな労苦をも喜びに変える力になっているのです。

福音朗読『マルコによる福音』

マルコ 1:29-39

「会堂」は宗教生活の場、「家」はプライベートな生活の場、「戸口」は公の生活の場ですから、イエスは生活のすべて場から人間を苦しめる悪の力を駆逐しています。人を悪から救う使命を持ったイエスの生涯を凝縮したような一日ですが、イエスも宣教のために、さまざまな労苦を味わったはずです。

イエスの祈りの具体的な内容が記述されているのは、ゲッセマネの祈りだけです。祈りに大切なのは、内容よりも前にその心、神との交わりそのものだからかも知れません。

祈りの中で、イエスは絶対者である神に触れ、自分の使命を確認します。「そのためにわたしは出て来たのである」の「出て来た」は、イエスを派遣した神から「出て来た」意味だと言えます。神に触れることによって確認することできた使命感がイエスに力を与え、労苦を避けるどころか、むしろ担わせているのです。

売名や金集めが目的なら、村に残って次々に奇跡を行ったはずですが、イエスは他の町や村に出ていきました。イエスが来たのは福音を告げ知らせるためであって、奇跡は手段にすぎないからです。

神から授かった使命感を持つとき、労苦は喜ぶべき報酬となるのです。

カファルナウムの人々の癒やし
The people of Capernaum bringing Jesus many to heal
William Brassey Hole (1900s)

参考文献

書籍『キリストへの新しい道』
著:キリストバル・バリョヌェボ神父

書籍『主日の聖書解説』
著:雨宮慧神父

冊子『聖書と典礼』について

毎週 主日のミサ で使われる冊子で、ミサで朗読される聖書箇所も書かれています。オリエンス宗教研究所 から発行されており、数週先のものまで各教会に置いてありますので、お近くのカトリック教会にてお求めください。